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24−4−4.大英帝国のインド植民地支配:大英帝国のインド直接統治

 ⑨大英帝国のインド直接統治:


イギリスは武力でインド植民地化を進め、1857年のインド大反乱はヒンドゥー教徒とムスリムが共にイギリスに反抗して起こったものでした。その反乱を鎮圧したイギリスは、東インド会社を通じての間接統治からイギリス国王による直接統治に改めました。そして、2億人ものインドの民を少数者のイギリス人が支配するために、各勢力間の対立を煽り、巧みな分割統治をすすめていきました。


◯藩王国間の対立:

インド大反乱鎮圧後、約半分をイギリスの直接統治としましたが、半分は各地の勢力に藩王国として自治を認め、藩王国間の連携は認めず藩王国間の対立を煽りました。


◯ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立:

ムガル帝国の17世紀までは融和策もあって、村落社会内部では多数をしめるヒンドゥ教徒と少数者であるイスラム教徒(ムスリム)は共存していました。しかし、イギリスが両教徒間の対立を煽り続けました。インド大反乱の後、インド人の民族意識が高まることを恐れたイギリスは、まずインド国民会議を組織させてその懐柔をはかりましたが、1905年のベンガル分割令で反英的になると、今度はイギリスはヒンドゥ教徒が主体だった国民会議派に対抗させるために全インド=イスラム連盟を結成させました。こうして同じインド人の中に宗教の違いによる政治勢力がうまれることとなり、両者の対立は深刻になっていきました。


◯カースト間の対立:

イギリスがインドで権力を握り始めた際、彼らはカースト制度を社会統制の手段として利用しました。イギリス人はバラモンカーストと同盟を結び、特権の一部を回復しました。イギリス植民地支配の中で、カーストの温存が植民地経営を容易にすることもあり、カースト化が進行しました。そして、イギリスはカースト間の対立を煽りました。


◯少数民族を軍隊に起用しインド支配と海外遠征に:

インド大反乱のヒンズー軍やイスラム軍を鎮圧するために、イギリスはパンジャーブ地方のシク教から成るシク兵を動員しました。更に、北西辺境州のパシュトゥーン人、パンジャーブのシク、ネパールのグルカを大量に採用し、イギリスのインド支配の支柱とし、アフガニスタン、チベット、ビルマなどへの遠征軍としました。


◯分割統治の結果としての分離独立:

ヒンドゥー教徒主体のインド国民会議派の反英運動が強まると、イギリスはムスリムを支援して全インド=ムスリム連盟を結成させました。それ以後、イギリスは両宗教の対立感情を煽りながら、巧妙な分割統治策を進めました。ヒンドゥー教徒であるガンディーは必死にムスリムとの連携と融和をはかりましたが、一本化は困難になっていきました。最終的にイギリスがインドとパキスタンに分離独立を条件に独立を認めたため、それまで一体であった「インド」は終に二つの国家に分断されてしまいました。


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