欧米帝国主義による植民地支配の代表は、やはり大英帝国のインド植民地支配ですので、それを概観してみることにします。
①概略:
16世紀からインドを支配したイスラム国家ムガール帝国が18世紀に衰亡し始め、そこにイギリス東インド会社(以後「英会社」と略す)が進出しインド貿易を独占し、徴税権を獲得し、軍事力を強化し、ほぼ全インドを植民地支配しました。イギリス産業革命がインド産業の根幹を破壊しました。
19世紀、圧政に耐えかねたインド人の大反乱が勃発し、ムガール帝国は滅亡し、英会社支配から大英帝国の直接統治となりました。分割統治が強化され、反英活動は強烈に弾圧され、インドの富は際限なく搾取され続け、反比例するように大英帝国の富が極大化していきました。インドの貧困と大英帝国の繁栄(七つの海を支配する覇権国家)はコインの裏表だと言われています。
②ムガール帝国衰亡:
1526年、アフガニスタンから侵攻したバーブルがデリーにイスラム国家ムガール帝国を建国しました。16世紀後半のアクバル帝の時に基礎が築かれ、17世紀後半のアウラングゼーブ帝時代に最盛期となり、ほぼインド全域を支配しましたが、ヒンドゥー教徒との融和策を廃棄したことから、少数民族(イスラム教徒)による多数民族(ヒンドゥー教徒)支配の矛盾が表面化し、各地で独立闘争が始まりました。
その結果、ムガール帝国が統治する地域はデリー周辺だけとなり、北部のパンジャブ地方、中央部のデカン高原、東部のベンガル地方(現バングラデッシュ)、南インドなどほとんどの地域が独立しました。
四分五裂し衰亡した国に、イギリスやフランスが進出してくることは容易いことでした。
③イギリス東インド会社(以後「英会社」と略す)の進出:
現インドネシアの香辛料貿易でオランダ会社との抗争に敗れた英会社は、ターゲットをインドに変え、マドラス、ボンベイ、カルカッタに拠点を設け、インド産キャラコ(手織りの綿織物)貿易を独占し大きな利益をあげました。イギリスの後を追うように、仏会社が隣接地に進出してきましたが、インド支配権をめぐって仏会社との間で抗争し、ベンガル地方の支配権を争い1757年のプラッシーの戦いで勝利し主導権を握りました。
④英会社によるインド搾取:
英会社はベンガル太守を擁立し、ベンガルの徴税権・行政権を認めさせました。従来通り既存の地主に農民から徴税させ英会社に納めさせる方法を採用し、地主たちは既得権益が守られるので依存はなく、農民たちはイギリス人に税金が納めれていることを知らず、イギリス人に支配されていることも知りませんでした。
しかし、税金はベンガルの公共工事やベンガル人のために使われることはなく、税金はロンドンに流れていきました。太い注射針で血を吸い取られていくようなものです。灌漑工事や治水工事なども行われず、大飢饉や疫病が頻繁に起こるようになり、膨大な数の死者が出ました。
⑤英会社による全インド攻略:
プラッシーの戦いを契機として英会社はインド植民地機関へと大きく転身し、またインド人を傭兵として雇用し軍事力を強化していき、その数は15万人にまで達しました。
そして、18世紀後半から19世紀にかけて、マイソール戦争(南インド)、マラーター戦争(中央部デカン高原)、シク戦争(北部パンジャブ地方)と立て続けに武力で制圧し、服従した地方政権は藩王国として自治を与えつつ、互いに連携がとれないように分割統治を行い、19世紀中頃までには、内陸の一部を除いてほとんどイギリスが支配し、ムガール帝国はその保護を受けて名目的に存続するのみとなりました。
やまとこたろう
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