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24−4−1.欧米帝国主義による植民地支配の代表:大英帝国のインド植民地支配

欧米帝国主義による植民地支配の代表は、やはり大英帝国のインド植民地支配ですので、それを概観してみることにします。 ①概略:                               16世紀からインドを支配したイスラム国家ムガール帝国が18世紀に衰亡し始め、そこにイギリス東インド会社(以後「英会社」と略す)が進出しインド貿易を独占し、徴税権を獲得し、軍事力を強化し、ほぼ全インドを植民地支配しました。イギリス産業革命がインド産業の根幹を破壊しました。 19世紀、圧政に耐えかねたインド人の大反乱が勃発し、ムガール帝国は滅亡し、英会社支配から大英帝国の直接統治となりました。分割統治が強化され、反英活動は強烈に弾圧され、インドの富は際限なく搾取され続け、反比例するように大英帝国の富が極大化していきました。インドの貧困と大英帝国の繁栄(七つの海を支配する覇権国家)はコインの裏表だと言われています。 ②ムガール帝国衰亡: 1526年、アフガニスタンから侵攻したバーブルがデリーにイスラム国家ムガール帝国を建国しました。16世紀後半のアクバル帝の時に基礎が築かれ、17世紀後半のアウラングゼーブ帝時代に最盛期となり、ほぼインド全域を支配しましたが、ヒンドゥー教徒との融和策を廃棄したことから、少数民族(イスラム教徒)による多数民族(ヒンドゥー教徒)支配の矛盾が表面化し、各地で独立闘争が始まりました。 その結果、ムガール帝国が統治する地域はデリー周辺だけとなり、北部のパンジャブ地方、中央部のデカン高原、東部のベンガル地方 (現バングラデッシュ)、 南インドなどほとんどの地域が独立しました。 四分五裂し衰亡した国に、イギリスやフランスが進出してくることは容易いことでした。 ③イギリス東インド会社(以後「英会社」と略す)の進出:        現インドネシアの香辛料貿易でオランダ会社との抗争に敗れた英会社は、ターゲットをインドに変え、マドラス、ボンベイ、カルカッタに拠点を設け、インド産キャラコ(手織りの綿織物)貿易を独占し大きな利益をあげました。イギリスの後を追うように、仏会社が隣接地に進出してきましたが、 インド支配権をめぐって仏会社との間で抗争し、ベンガル地方の支配権を争い1757年のプラッシーの戦いで勝利し主導権を握りました。 ④英会社によるインド搾取:               

24−3.西欧列強によるアフリカ分割/植民地支配:ベルギー/イタリア

  ⑥ベルギーのアフリカ進出: 19世紀後半のベルギー国王レオポルド2世は、1878年以来、植民地経営に乗り出し、コンゴ地方に進出した。列強は利害がそれを警戒し、ドイツ帝国のビスマルクが召集して1884~85年、ベルリン会議が開催され、レオポルド2世の私的な所有地としてコンゴ自由国の設立が認められた。 コンゴ自由国は、現地の黒人に対する過酷な収奪が行われたため、国際的な非難が起こった。そこでベルギーは1908年、コンゴを国家管理に移譲させ、ベルギー領コンゴとして植民地管理を行うこととした。 第二次世界大戦後の民族主義の台頭の中でコンゴにも独立運動が起こると、ベルギーはフランスのアルジェリアにおける武力統治の失敗を見て、武力による抑圧をあきらめ、1960年に独立を認めコンゴ共和国が成立した。しかしルムンバを中心とした独立政府に対して鉱産資源の支配を維持しようとする大資本の後押しを受けたベルギー、アメリカの軍事介入が始まり、5年にわたるコンゴ動乱に突入することになった。 → 現在のコンゴ民主共和国 ⑦イタリアのアフリカ進出: イタリアはシチリア島の対岸のチュニジアをフランスに奪われたことに危機感を抱き、1882年、ドイツ・オーストリアとの間に三国同盟を締結した。またイタリアはアフリカ東北部のエリトリアに進出し、1882年に領有を宣言、ベルリン会議でエチオピアから分離させて領有することを認められた。さらにエリトリアからエチオピアに進出を図り、1889年5月にはメネリク2世とウッチャリ条約を締結した。エチオピアがそれを破棄するとイタリア軍は軍事侵攻し、1896年にアドワの戦いとなったが、フランスなどに支援されたエチオピア軍に敗れ、一旦後退する。 20世紀に入ると英仏とともにソマリランドの分割に加わり、そのインド洋側を植民地とした。 次いでチュニジアの東の当時オスマン領であったトリポリ、キレナイカに侵出、オスマン帝国に宣戦布告してトリポリを占領した(1911年~12年の第一次イタリア=トルコ戦争)。翌12年講和し、イタリアのトリポリ、キレナイカ2州領有が承認されると、イタリアは古代ローマの地名であるリビアと改めて植民地とした。これらは第一次世界大戦前の帝国主義列強によるアフリカ分割の一例であった。 ファシスト党のムッソリーニ政権が成立するとアドワの戦いの報復を唱え、1935~

24−2.西欧列強によるアフリカ分割/植民地支配:イギリス/フランス/ドイツ

  ③イギリスのアフリカ進出 1875年のディズレーリ内閣によるスエズ運河会社買収以来、イギリスはアフリカ分割にもっとも積極的に関わった。19世紀末にはエジプトのウラービーの反乱、スーダンのマフディー教徒の反乱の鎮圧し、さらに南アフリカではケープ植民地政府がオランダ系白人入植者のブール人の国への侵略を進め、カイロとケープタウンを結ぶアフリカ縦断政策を掲げた。植民地拡大による国内矛盾の解決を掲げて帝国主義政策を展開し、1898年のフランスとのファショダ事件、99年から1902年の南アフリカ戦争を起こすこととなる。 ④フランスのアフリカ進出 フランスは、1830年のアルジェリア出兵でアルジェリアを植民地化して以来、地中海の対岸の北アフリカへの進出を開始していたが、1880年代から帝国主義段階に入り、1881年のチュニジア占領、および保護国化、さらにサハラ、ジブチ、マダガスカルの獲得と進み、サハラとジブチを結ぶアフリカ横断政策をとるようになった。これらはイタリアとの対立、アフリカ縦断策を採るイギリスとの対立をもたらした。イギリスとはファショダ事件が起こったが、衝突を回避した後、モロッコへの侵出を策すようになり、1904年には英仏協商を締結して、イギリスのエジプトでの権益とフランスのモロッコ権益を相互に認める植民地分割協定を行った。 フランスはアフリカ内陸の広大な植民地を、フランス領赤道アフリカ(AEF)とフランス領西アフリカ(AOF)の二つの統治機構に分けて支配した。それぞれから独立した現在の国は次のものがある。 ◯フランス領赤道アフリカ →  コンゴ共和国 、ガボン、中央アフリカ、チャド ◯フランス領西アフリカ → モーリタニア、セネガル、ギニア、コートジボアール、ベニン、マリ、ブルキナファソ、ニジェール ⑤ドイツのアフリカ進出 国家統一の遅れたドイツは、植民地獲得競争でも遅れ、1880年代に、ビルマルクがベルリン会議で列強のアフリカ分割を調停にあたるとともに、アフリカへの進出を始めた。1883年中部アフリカ西岸のアングラ・ペチュナを占領し、次いでトーゴランド、カメルーンに進出した。また、1886年イギリス・フランスとともにザンジバルなど東アフリカ分割に参加し、ドイツ領東アフリカ(現タンザニアなど)の広大な領土を得た。またベルリン会議では南西アフリカ(後のナミビア)を植

24−1.西欧列強によるアフリカ分割/植民地支配

①19~20世紀前半に欧州列強によるアフリカの植民地化が展開され、ほぼ全土を分割された。19世紀前半までのポルトガル・イギリス・フランスなどのヨーロッパ勢力のアフリカ進出は、海岸部に交易拠点を設け、内陸の現地首長らと黒人奴隷貿易を行うという形態をとっていたが、19世紀中頃からアフリカ探検が進められ、内陸部の豊富な資源の存在が注目されるとともに、勃興したヨーロッパ資本主義諸国にとっての資源の供給地、同時に市場として、さらに資本を投下する先としての植民地として脚光を浴びるようになり、西欧列強は競ってアフリカの領土化に乗り出した。 ②帝国主義諸国によるアフリカ植民地化 1870年代のイギリスによるエジプトの支配に始まり、フランス、ポルトガル、ドイツ、イタリアによって帝国主義的分割が進められ、ベルギー国王のレオポルド2世によるコンゴ領有を機に、1884~85年にドイツのビスマルクが提唱したアフリカ分割に関するベルリン会議が開催され、列強の利害が調整された。 19世紀末にはアフリカ縦断政策をとるイギリスと、アフリカ横断政策をとるフランスが遭遇してファショダ事件となった。このときは全面対決は回避されたが、アフリカにおける主導権はイギリスが握り、イギリスは南アフリカ戦争でアフリカ南端のケープ植民地を拡張し、南アフリカ連邦を成立させた。  このようにして、1900年頃までにはアフリカ全土は、エチオピアとリベリアを除いて列強により分割されてしまった。以下は列強がそれぞれ領土としたアフリカの地域である。 ◯イギリス:エジプト・スーダン・南アフリカ・トランスヴァール・オレンジ・ローデシア(現在のザンビア、ジンバブエ)・ケニア・ナイジェリア・ゴールドコースト(後のガーナ) ◯フランス:アルジェリア・チュニジア・モロッコ・マダガスカル・サハラ(西アフリカ)・ギニア・赤道アフリカ・フランス領コンゴ ◯ドイツ:ドイツ領東アフリカ(タンガニーカ・ルワンダ)・カメルーン・トーゴ・南西アフリカ(ナミビア) ◯ベルギー:ベルギー領コンゴ ◯イタリア:リビア(トリポリ・キレナイカ)・ソマリランド・エリトリア ◯ポルトガル:アンゴラ・モザンビーク・ギニアビサウ  ポルトガルのアフリカ侵出は、ヨーロッパ諸国で最初に行われ、奴隷貿易拠点とインド航路の中継基地が建設され、さらに内陸部への植民地化を進めた。