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24−1.西欧列強によるアフリカ分割/植民地支配


①19~20世紀前半に欧州列強によるアフリカの植民地化が展開され、ほぼ全土を分割された。19世紀前半までのポルトガル・イギリス・フランスなどのヨーロッパ勢力のアフリカ進出は、海岸部に交易拠点を設け、内陸の現地首長らと黒人奴隷貿易を行うという形態をとっていたが、19世紀中頃からアフリカ探検が進められ、内陸部の豊富な資源の存在が注目されるとともに、勃興したヨーロッパ資本主義諸国にとっての資源の供給地、同時に市場として、さらに資本を投下する先としての植民地として脚光を浴びるようになり、西欧列強は競ってアフリカの領土化に乗り出した。


②帝国主義諸国によるアフリカ植民地化

1870年代のイギリスによるエジプトの支配に始まり、フランス、ポルトガル、ドイツ、イタリアによって帝国主義的分割が進められ、ベルギー国王のレオポルド2世によるコンゴ領有を機に、1884~85年にドイツのビスマルクが提唱したアフリカ分割に関するベルリン会議が開催され、列強の利害が調整された。


19世紀末にはアフリカ縦断政策をとるイギリスと、アフリカ横断政策をとるフランスが遭遇してファショダ事件となった。このときは全面対決は回避されたが、アフリカにおける主導権はイギリスが握り、イギリスは南アフリカ戦争でアフリカ南端のケープ植民地を拡張し、南アフリカ連邦を成立させた。 


このようにして、1900年頃までにはアフリカ全土は、エチオピアとリベリアを除いて列強により分割されてしまった。以下は列強がそれぞれ領土としたアフリカの地域である。


◯イギリス:エジプト・スーダン・南アフリカ・トランスヴァール・オレンジ・ローデシア(現在のザンビア、ジンバブエ)・ケニア・ナイジェリア・ゴールドコースト(後のガーナ)

◯フランス:アルジェリア・チュニジア・モロッコ・マダガスカル・サハラ(西アフリカ)・ギニア・赤道アフリカ・フランス領コンゴ

◯ドイツ:ドイツ領東アフリカ(タンガニーカ・ルワンダ)・カメルーン・トーゴ・南西アフリカ(ナミビア)

◯ベルギー:ベルギー領コンゴ

◯イタリア:リビア(トリポリ・キレナイカ)・ソマリランド・エリトリア

◯ポルトガル:アンゴラ・モザンビーク・ギニアビサウ 

ポルトガルのアフリカ侵出は、ヨーロッパ諸国で最初に行われ、奴隷貿易拠点とインド航路の中継基地が建設され、さらに内陸部への植民地化を進めた。


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