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24−3.西欧列強によるアフリカ分割/植民地支配:ベルギー/イタリア


 ⑥ベルギーのアフリカ進出:

19世紀後半のベルギー国王レオポルド2世は、1878年以来、植民地経営に乗り出し、コンゴ地方に進出した。列強は利害がそれを警戒し、ドイツ帝国のビスマルクが召集して1884~85年、ベルリン会議が開催され、レオポルド2世の私的な所有地としてコンゴ自由国の設立が認められた。


コンゴ自由国は、現地の黒人に対する過酷な収奪が行われたため、国際的な非難が起こった。そこでベルギーは1908年、コンゴを国家管理に移譲させ、ベルギー領コンゴとして植民地管理を行うこととした。


第二次世界大戦後の民族主義の台頭の中でコンゴにも独立運動が起こると、ベルギーはフランスのアルジェリアにおける武力統治の失敗を見て、武力による抑圧をあきらめ、1960年に独立を認めコンゴ共和国が成立した。しかしルムンバを中心とした独立政府に対して鉱産資源の支配を維持しようとする大資本の後押しを受けたベルギー、アメリカの軍事介入が始まり、5年にわたるコンゴ動乱に突入することになった。 → 現在のコンゴ民主共和国



⑦イタリアのアフリカ進出:

イタリアはシチリア島の対岸のチュニジアをフランスに奪われたことに危機感を抱き、1882年、ドイツ・オーストリアとの間に三国同盟を締結した。またイタリアはアフリカ東北部のエリトリアに進出し、1882年に領有を宣言、ベルリン会議でエチオピアから分離させて領有することを認められた。さらにエリトリアからエチオピアに進出を図り、1889年5月にはメネリク2世とウッチャリ条約を締結した。エチオピアがそれを破棄するとイタリア軍は軍事侵攻し、1896年にアドワの戦いとなったが、フランスなどに支援されたエチオピア軍に敗れ、一旦後退する。


20世紀に入ると英仏とともにソマリランドの分割に加わり、そのインド洋側を植民地とした。

次いでチュニジアの東の当時オスマン領であったトリポリ、キレナイカに侵出、オスマン帝国に宣戦布告してトリポリを占領した(1911年~12年の第一次イタリア=トルコ戦争)。翌12年講和し、イタリアのトリポリ、キレナイカ2州領有が承認されると、イタリアは古代ローマの地名であるリビアと改めて植民地とした。これらは第一次世界大戦前の帝国主義列強によるアフリカ分割の一例であった。


ファシスト党のムッソリーニ政権が成立するとアドワの戦いの報復を唱え、1935~36年に再びエチオピアに軍事進出(第2次イタリア=エチオピア戦争)し、エチオピア併合を強行した。


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