スキップしてメイン コンテンツに移動

23−3.欧米列強による苛烈なアジア植民地支配: ⑤列強の侵略にあえぐアジア

 

1)清(中国)

1662 年以降、中国を支配した満州族の清は、イギリスとのアヘン戦争やアロー戦争の敗北を契機に列強に不平等条約を締結させられ、外国の圧力を受けた。特に日清戦争の敗北後は、ロシア・イギリス・フランス・ドイツなどによって鉄道の敷設権や要地の租借権を奪われ、半ば植民地の状態となった。


2)朝鮮

14世紀に李氏が朝鮮半島を統一したが、17世紀に入ると清の攻撃を受けて服属した。欧米列強は鎖国を続ける朝鮮に開国をせまり、我が国も日朝修好条規を結び開国を進めたが、日清戦争によって宗主国の清に朝鮮の独立を認めさせた。その後ロシアが朝鮮を圧迫したが、日露戦争を経て、我が国が朝鮮の指導・監督権を獲得し、1910年、日本の領土(日韓併合)となった。


3)インド

紀元前4世紀に統一国家の出現を見たインドは、16世紀にはムガル王朝が成立した。しかし、1600年にイギリスがインドに進出して乗インド会社を設立し、度重なる征服戦争を繰り返して全土を征服した。イギリスは、セポイの反乱の武力鎮圧後、1877年にムガル帝国を滅ぼして英領インド帝国を樹立。以後は直接統治を行い、苛酷な植民地経営を行った。


3)ミャンマー(旧ビルマ)

1044 年にパガン王朝が全土を統一したが13世紀の元帝国の侵入後は小国に分裂し、やがてアラウンバヤ王朝が統一を達成した。17世紀以降、イギリスの乗インド会社と貿易を行っていたが、イギリスが三度にわたるミャンマー(ビルマ)戦争でこれを征服し、1886年に全土をインド帝国に併合し、植民地化した。


4)インドネシア

14世紀にはジャワ島を中心にマジャバヒト王国が勢力を拡大したが、17世紀にはマタラム王国などイスラム系の群小国家が成立した。17紀よりポルトガル・オランダ・イギリスなどが進出し、1818年にオランダがマタラム王国を滅ぼして植民地にし、19世紀末までにスマトラ.ボルネオを支配し、1904年にオランダ領東インドをつくって植民地体制を確立した。


5)マレーシア

15 世紀にマラッカ王国がにポルトガルに支配され、17世紀にはオランダの支配を受けた。18世紀後半に入るとイギリスが進出し、イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡植民地として直接統治し、さらに北ボルネオ・マライ半島への支配を強化して1895年にマライ連邦を結成した。


6)インドシナ三国

中国支配にあったベトナムは、10世紀に独立政権が誕生したが、19世紀の阮朝がフランスの軍事介入を受け、侵攻された。ベトナムの宗主権を主張する清がフランスと戦った(清仏戦争)が敗れたため、1885年フランスの保護国となった。カンボジアは、9世紀のアンコール朝がカンボジア最盛期の王朝となったが、14世紀以降は周辺国に侵入を受け衰還し、ベトナムがフランスの植民地にされると1863年にフランスの保護国とされた。ラオスも、14世紀半ばにランサン王国が最初の統一国家となったが、1893年にフランスの保護国となった。フランスは、このインドシナ3国を併合して仏領インドシナ連邦(仏印)を形成した。


7)フィリピン

7千余りの島嶼をもつこの地域は、マレー・インドシナ系の民族が、イスラム教を信仰していたが、16世紀にマゼラン率いるスペイン遠征隊が侵入。武力でルソン島を平定したスペインは1571年に植民地とし、皇太子フィリップにちなみここをフィリピンと命名した。1898年には米西戦卑でスペインに勝ったアメリカがフィリピンの植民統治を行い、徹底した英語とキリスト教の普及を押し付けた。


8)タ イ

13世紀のスコータイ王朝が最初に民族統一国家をつくり、14世紀から4 百年続いたアユタヤ王朝を経て、1782年に今日のバンコク王朝が創設された。19世紀から20世紀にかけてイギリスとフランスからの進攻を受けてラオス・カンボジア・マレーにある領土を取られたが、インドシナ半島の英仏両国の緩衝国家として独立を保った。


                             やまとこたろう                



ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

37.日韓併合 〜その実情

  今回は、日露戦争のわずか6年後の1910年に行われた 日韓併合 について見ていきたいと思います。 ①日韓併合の背景:大韓帝国の実情と日本の安全保障 日韓併合は、日本が武力で一方的に制圧・占領したものではなく、当時存在した 李氏朝鮮の最後の姿である大韓帝国が、日本の統治下に入ることを選択し、「韓国併合に関する条約」によって実現したもの です。 日韓併合の対象となった大韓帝国は、現在の韓国と北朝鮮を合わせた朝鮮半島一帯を統治していた国です。元々「朝鮮」あるいは「李氏朝鮮」という国名でしたが、この王朝は1392年から約500年間朝鮮半島を支配していました。高麗の臣下であった李氏が明の力を借りて建国した経緯から、 明、そしてその後の清の属国として長い歴史 を歩みました。 李氏朝鮮時代の約500年間は、両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級が権力を握り、多くの国民が貧困と搾取に苦しんでいたとされています。人口も減少傾向にあり、文化的な停滞も見られました。これについて歴史家の崔基鎬(チェ・ギホ)氏は、「他力本願ながら李朝の歴史に終止符を打った日韓併合は、この民族にとって千載一遇の好機であった。これを否定することは歴史の歪曲である」と述べています。日韓併合前の朝鮮半島は、このように国民の窮乏と文化的な停滞が長く続いた歴史を持っていました。 1895年の 日清戦争 で勝利した日本は、その後の日露戦争を経て、清の支配から李氏朝鮮を独立させました。これにより、朝鮮半島は500年ぶりに独立し、 大韓帝国が成立 したのです。 ②ロシアの南下政策と日本の危機感 話は前後しますが、当時の日本にとって最大の脅威は ロシアの南下政策 でした。ロシアの勢力が朝鮮半島まで南下すれば、北海道のすぐ北にある樺太(サハリン)と、九州の北に位置する朝鮮半島によって日本は挟撃される形となり、日本の安全保障は一層深刻なものになります。そのため、 朝鮮半島は日本にとって、何としても死守しなければならない生命線 でした。 しかし、国力が衰退していた李氏朝鮮には、自力でロシアの脅威から朝鮮半島を守る力はほとんどありませんでした。そこで日本は、朝鮮半島の近代化を支援し、ロシアの進出を阻もうとしましたが、長年宗主国として朝鮮を属国化していた清国は、当然これを許そうとしませんでした。 ③日清・日露戦争と日本の影響力確...

第一次世界大戦前夜:帝国主義の衝突 41-1/2 

  第一次世界大戦を簡潔に表現するならば、 それは 白人列強による植民地争奪戦の最終局面 と言えるでしょう。 この戦争に至るまでの国際情勢を詳しく見ていきましょう。 ①産業革命と植民地拡大の競争 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国は産業革命を背景に、地球規模での植民地獲得競争を繰り広げていました。イギリスやフランスは、早期に産業革命を達成し、広大な植民地帝国を築き上げていました。一方、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリアといった後発の国々は、植民地獲得に出遅れていました。 しかし、この時期にドイツは急速な工業化を遂げ、「世界の工場」と呼ばれるほどの経済力をつけるに至ります。経済力の増大は、当然ながら国際社会における影響力の拡大を求める声へとつながり、ドイツはより多くの植民地、ひいては勢力圏を求めるようになりました。 ②アフリカ分割と列強同士の争い 列強が海外に目を向けた頃には、日本と中国を除いて、東アジアにおける植民地支配はほぼ完了していました。そこで、ヨーロッパ各国が次なる目標としたのがアフリカ大陸です。アフリカ分割競争は激化し、わずかな期間で大陸のほとんどが列強によって支配されてしまいました。 そして、アフリカ大陸にも「取り尽くす場所」がなくなると、今度は白人国家同士の醜い争いが表面化し始めます。これが、第一次世界大戦へとつながる直接的な引き金の一つとなります。 ③三B政策と三国同盟・三国協商の形成 第一次世界大戦勃発の大きな要因となったのは、ドイツの推進した**3B政策(ベルリン、ビザンチウム、バグダッドを結ぶ鉄道建設構想)**です。この政策は、ドイツがオーストリア=ハンガリー帝国を経由して中東まで鉄道網を延伸しようとするものでした。 このドイツの動きに対し、ロシアは南下政策の妨げとなると危機感を抱きました。また、イギリスはスエズ運河の権益が脅かされること、さらに鉄道がインドに到達することでその支配が危うくなる可能性を懸念し、看過できませんでした。 こうして、利害が一致したイギリス、フランス、ロシアは 三国協商 を結び、ドイツに対抗する姿勢を明確にしました。これに対しドイツは、同じく植民地獲得に出遅れていたオーストリア=ハンガリー帝国、イタリアと 三国同盟 を結び、勢力均衡を図りました。 ④サラエボ事件と大戦勃発 オスマン帝...

34.日露戦争での日本勝利への世界の反応 

日本の勝利への世界の反応などをまとめてみます。 ①インド初代首相ネルー: 「私の子供の頃に日露戦争というものがあった。その頃のロシアは世界一の陸軍国だった。世界中は、ちっぽけな日本なんかひとたまりもなく叩きつぶされると思っていた。アジア人は西洋人にはとてもかなわないと思っていたからだ。ところが戦争をしてみると、日本が勝ったのだ。 私は、自分たちだって決意と努力次第ではやれないはずはないと思うようになった。そのことが、今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げることになったのだ。私にそういう決意をさせたのは、日本なのだ。」 ②中華民国建国孫文: 「日露戦争はアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この勝利は全アジアに影響を及ぼし、全アジア人は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くにいたり、大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、ナショナリズムを急速に高めた。」 ③英国領ビルマの初代植民地首相バ・モウ: 「最初のアジアの目覚めは、日本のロシアに対する勝利に始まり、この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった。 それは全ての虐げられた民衆に、新しい夢を与える歴史的な夜明けだった。 ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。 日本の勝利はわれわれに新しい誇りを与えてくれた。歴史的に見れば、日本の勝利は、アジアの目覚めの発端、またはその発端の州発点と呼べるものであった。」 ④トルコ皇帝: 「われわれは、日本人の成功を衷心から喜ばなくてはならない。 ロシア人に対する日本人の勝利は、すなわちわれわれ有色人種の勝利である。 国家の命運は国民の自覚と愛国心で決するものであり、トルコの未来も日本を見習い近代化を進めるならば、決して悲観すべきではない。」 ④ロンドンタイムズ(新聞記事): 「日本海軍の目標は、単にロシア艦隊を打ち負かすことだけではなかった。これを撃滅することだった。そして、決意したことを成し遂げたのだ。 その理由は、軍艦にも砲にも、乗組員の熟練度にも、戦術の巧拙にも求められない。 精神的性格や高遠な理想、やむにやまれぬ熱情や、あまねく浸透した責任感と愛国心などに求められるべきだ。対馬海峡の勝利は、武士道によってもたらされたものである。」 ⑤アフリカ系米国人W.E.B.デュボイス: 「有色人種が先天...