前回に続き、南北朝時代以降を俯瞰してみます。
③南北朝時代14世紀:
鎌倉時代に、始めて皇統が持明院統と大覚寺統の二つに分裂しました。後醍醐天皇は持明院統を擁する幕府を滅ぼそうとしましたが失敗し、隠岐に流されました。
しかし、尊王の志の篤い民に助けられて隠岐を脱出し、再び討幕を呼びかけ、足利尊氏や新田義貞や楠木正成らにより鎌倉幕府を打倒しました。
後醍醐天皇は、建武の新政と呼ばれる天皇親政を行い、公武の政治体制・法制度・人材の結合を図りましたが、乱後の混乱を収拾しきれず、足利尊氏との戦いに破れ、政権は崩壊しました。
京都で持明院統の光明天皇が即位したのち、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を立て、南朝と北朝の対立抗争が50年超続きました。
北朝の大軍に対し僅かな軍勢で応戦し続けた南朝の名将楠木正成クスノキマサシゲの最後の言葉、「七たび生まれかわって朝敵を討たん」が語り継がれています。
④室町時代14世紀〜16世紀:
京都の室町に室町幕府が置かれました。幕府は朝廷の機能を次第に侵食し、朝廷は実権や機構を失っていきました。一方、各国に置かれた守護は国内支配力を強め、守護大名へと成長していきました。
足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から日本国王に冊封されました。義満は守護大名の勢力抑制に努めましたが、守護大名の拡大志向は根強く、幕府対守護大名の戦乱が多数発生しました。応仁の乱によって戦国時代へと移行しました。
この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き=一揆が浸透しました。村落社会の自律化が進み、惣村・郷村が各地に成立しました。西日本では交易が活発化すると、その活動は朝鮮・中国に及びました。
文化面では、連歌(俳句)・能・狂言・茶道・華道など身分を超えた交流に特徴づけられる室町文化が栄えました。この文化は禅宗の影響を享け、簡潔さと深みという特徴を持っており、日本人の文化・生活の基盤を形成し現代にまでつながっています。
⑤戦国時代15世紀後期〜16世紀後期:
守護大名や守護代などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は、中世的な支配体制を徐々に崩し、各地で自立化を強めていき、日本各地に地域国家が多数並立しました。
16世紀半ばに登場した織田信長は楽市楽座を作ったり、自治都市の堺を直轄領にしたりして、強大な経済力と軍事力を手にしました。
また、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていきました。
やまとこたろう
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