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14-2-2.中世日本の南北朝時代以降

前回に続き、南北朝時代以降を俯瞰してみます。 ③南北朝時代14世紀: 鎌倉時代に、始めて皇統が持明院統と大覚寺統の二つに分裂しました。 後醍醐天皇 は持明院統を擁する幕府を滅ぼそうとしましたが失敗し、隠岐に流されました。 しかし、尊王の志の篤い民に助けられて隠岐を脱出し、再び討幕を呼びかけ、足利尊氏や新田義貞や楠木正成らにより鎌倉幕府を打倒しました。 後醍醐天皇は、 建武の新政 と呼ばれる天皇親政を行い、公武の政治体制・法制度・人材の結合を図りましたが、乱後の混乱を収拾しきれず、足利尊氏との戦いに破れ、政権は崩壊しました。 京都で持明院統の光明天皇が即位したのち、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を立て、南朝と北朝の対立抗争が50年超続きました。 北朝の大軍に対し僅かな軍勢で応戦し続けた南朝の名将楠木正成 クスノキマサシゲ の最後の言葉、「七たび生まれかわって朝敵を討たん」が語り継がれています。 ④室町時代14世紀〜16世紀: 京都の室町に 室町幕府 が置かれました。幕府は朝廷の機能を次第に侵食し、朝廷は実権や機構を失っていきました。一方、各国に置かれた守護は国内支配力を強め、守護大名へと成長していきました。 足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から日本国王に冊封されました。義満は守護大名の勢力抑制に努めましたが、守護大名の拡大志向は根強く、幕府対守護大名の戦乱が多数発生しました。 応仁の乱 によって戦国時代へと移行しました。 この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き=一揆が浸透しました。村落社会の自律化が進み、惣村・郷村が各地に成立しました。西日本では交易が活発化すると、その活動は朝鮮・中国に及びました。 文化面では、連歌(俳句)・能・狂言・茶道・華道など身分を超えた交流に特徴づけられる室町文化が栄えました。この文化は禅宗の影響を享け、簡潔さと深みという特徴を持っており、日本人の文化・生活の基盤を形成し現代にまでつながっています。 ⑤戦国時代15世紀後期〜16世紀後期: 守護大名や守護代などを出自とする 戦国大名 が登場し、それら戦国大名勢力は、中世的な支配体制を徐々に崩し、各地で自立化を強めていき、日本各地に地域国家が多数並立しました。 16世紀半ばに登場した 織田信長 は楽市楽座を作ったり、自治都市の堺を直轄領にしたりして、強大

14-2-1.中世の日本を俯瞰してみます

  前回の中世イギリスに準じて、中世日本について俯瞰してみます。 ①中世日本の全体像: 平安時代後期の12世紀から戦国時代の17世紀までが、日本の中世と定義されています。1192年、源頼朝が征夷大将軍に任命され最初の武家政権となった鎌倉幕府が成立しました。政治権力が朝廷から武家に移行しました。 超大国の侵略いわゆる元寇がありましたが、その国難を乗り越え、皇統が分裂した南北朝時代を経て、室町幕府が成立し、室町幕府が衰退すると、群雄が割拠する戦国時代となり、織田信長による再統合(天下統一)へと向かいました 。 ②鎌倉時代12世紀末〜14世紀: 源氏 は源平合戦で勝利し平氏政権を打倒し、征夷大将軍に任ぜられ 鎌倉幕府 を開き、守護・地頭設置を認められ、朝廷と並ぶ政権へと成長していきました。ちなみに、源平合戦の時、源氏は白地に赤丸の旗、平氏は赤字に金丸の旗を掲げて戦い、勝利した源氏の旗が日本国旗の元となりました。 その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が成立しました。13世紀前半、朝廷と武家政権の初めての武力衝突となった 承久合戦 に勝ち、武家政権が優位となりました。 ユーラシア大陸の大半を支配した超大国 モンゴル帝国 が、高麗・南宋も従属させ、13世紀後半クビライ皇帝は、日本との通商を求め使節団を送り、それに対し執権 北条時宗 は朝廷に外交交渉を依頼する一方、九州北部沿岸の防衛体制を強化し蒙古襲来に備えました。 当時の世界最大隻数の元・高麗合同艦隊を送り込み、対馬・壱岐を侵略し住民を殺戮し奴隷とし、九州に上陸し、集団騎馬戦法、大砲などにより圧倒し、多数の住民を殺戮し奴隷としました( 元寇 )。 九州を中心とした鎌倉武士団の獅子奮迅の働きと台風と日本海と祈りにより幸いにも撃退することができました。 国家存亡をかけた大戦を通して、日本の国土国民を守るべく朝廷・武家・宗教界・民衆の心が一つになり、戦い、祈った結果、撃退できました。そして、日本の国土国民という意識が醸成されていったと思われます。 もし破れていたら、京都・鎌倉にまで攻め上られ、朝廷・幕府は壊滅し、公家・武家・民衆は殺戮され或いは奴隷として大陸に拉致され、元・高麗連合軍に支配され、縄文以来培われてきた日本文明は破壊され尽くされ、今日のような日本にはならなかったと想像されます。悪夢ですよね

14−1.中世におけるイギリスと日本の違い

  前回まで、キリスト教と仏教の違いや世界史に置けるそれぞれの特徴などを述べてきました。今回は、中世におけるイギリスと日本それぞれの変遷を概観してみようと思います。 ①中世イギリスの全体像: 12世紀後半から16世紀までが、英国の中世封建時代と定義されています。プランタジネット朝の1215年、貴族が王権を制限するマグナ=カルタが成立しました。フランスのヴァロワ朝との王位継承争いから、百年戦争となりました。その後も王位継承をめぐってバラ戦争が続き、封建諸侯は没落していき、王権が強化されていきました。。 ②12世紀、プランタジネット朝: 1154年、イギリスの ノルマン朝 が断絶したため、血縁のフランスのアンジュー伯アンリが、王位を継承しヘンリ2世となりました。これが プランタジネット朝 の始まりです。ヘンリ2世は、イギリスとフランスにまたがる広大な アンジュー帝国 ともいわれる領土を有するようになりました。ノルマン朝と同じく、宮廷ではフランス語が用いられ、フランスとの一体感が強い時代でしたが、王権に対して貴族と教会という封建領主の力が次第に強くなった時代でもありました。次のリチャード1世は、第3回十字軍に参加し、フランスでのフィリップ2世との争いに明け暮れてほとんどイギリスに居らず、その戦費のみが国民に賦課されて反発が強まりました。 ③13世紀、王権の制限進む: ジョン王は、再びカンタベリー大司教の任命権をめぐってローマ教皇と争って破門され、またフランス王フィリップ2世との争いにも敗れてフランス国内の ノルマンディー の領土を失ったため貴族たちの離反を招きました。貴族たちは 1215年 に 大憲章(マグナ=カルタ) をジョン王に認めさせて、従来の貴族の権限を保障し、国王といえども法に服するという原則が生まれました。次の ヘンリ3世 はマグナ=カルタを無視して諸侯に重税を課そうとして反発を受け、貴族の反乱が起き、国王は反乱軍の捕虜となってその要求に屈し、1265年に初めて議会が開設されました。さらに1295年には エドワード1世 がスコットランド遠征軍の費用を調達するため議会を招集、この 模範議会 が身分制議会としてのイギリス議会の始まりです。エドワード1世の時に宮廷で英語が話されるようになるなどフランス的な要素はうすくなり、イギリス国家としての基本的な骨格が出来上がり

13-4-2-2. ブータン、タイ、ミャンマー、ベトナム、そして日本の仏教の概観

⑦ブータン総人口約80万:ヒマラヤ山脈中の小さな立憲君主制のチベット仏教の国です。所得ではなく幸福度を目安にした政治が行われ、人々は心豊かに幸せに暮らしているようです。中共と隣接しているため領土侵食圧力を受けており、今後が心配です。隣国ネパールは、すでに中共の影響力があります。ちなみに、 ネパールでは大多数はヒンズー教徒ですが、多くの人は自らをヒンズー教徒兼仏教徒であると捉え、寺院や礼拝儀式を共有することが多い ようです。 ⑧タイ約7千万人: タイ王国には上座部仏教(自分の解脱を求める)が伝わりました。人口の90%以上が仏教徒です。インドシナの英仏領の干渉地帯として、独立を維持できた唯一の国です。男子は一生に一度出家修行が義務づけされています。在家者は、僧団が必要とする食物・薬・衣服の布施や寺院修復費用の寄進を積極的に行います。信者たちが毎日金箔を仏像に貼り付けるため、いつまでもピカピカです。 ⑨ミャンマー(元英領)約4千万人: 上座部仏教が伝わりました。国民の9割は仏教徒で13%が僧侶です。男子は一生に一度出家修行が義務づけされています。僧侶は「ブッダの子」として社会の尊敬を集めています。軍事政権に抗議するデモでは多数の僧侶が先頭に立っています。中共が軍事政権を支援しています。 ⑩ベトナム(元仏領)には大乗仏教(自分を救い他者を救う)が伝わりました。ベトナム戦争時、戦火にあえぐ民衆を物心両面で支援するために僧たちが活動しました。北ベトナム共産軍と南ベトナム米軍の双方は、そのような僧たちの活動を弾圧し、抗議した僧が焼身自殺する事件が何度も起こりました。禅僧ティク・ナット・ハンは、フランスに亡命しコミュニティを作り現地で活動を続けています。 ⑪日本約8千万人: 中国を経て6世紀に大乗仏教が日本に伝えられました。聖徳太子から天武天皇までの間に、象徴天皇を中心とした しらす政治体制 と 十七条憲法 の「篤く三宝を敬うこと」を両輪とした国の基本が方向づけられました。外敵襲来、戦乱、災害、飢饉、疫病、敗戦など幾多の試練を、この両輪と国民の努力で乗り越え、現在もその命脈が細々ですが保たれています。 ブッダが自覚した内容が記された経典が、僧たちによって伝えられ、仏教が日本に広まりました。鎌倉時代には、中国から帰朝した際、経典を持ち帰らなかった道元禅師により、ブッダが自覚した事実が