前回まで、キリスト教と仏教の違いや世界史に置けるそれぞれの特徴などを述べてきました。今回は、中世におけるイギリスと日本それぞれの変遷を概観してみようと思います。
①中世イギリスの全体像:
12世紀後半から16世紀までが、英国の中世封建時代と定義されています。プランタジネット朝の1215年、貴族が王権を制限するマグナ=カルタが成立しました。フランスのヴァロワ朝との王位継承争いから、百年戦争となりました。その後も王位継承をめぐってバラ戦争が続き、封建諸侯は没落していき、王権が強化されていきました。。
②12世紀、プランタジネット朝:
1154年、イギリスのノルマン朝が断絶したため、血縁のフランスのアンジュー伯アンリが、王位を継承しヘンリ2世となりました。これがプランタジネット朝の始まりです。ヘンリ2世は、イギリスとフランスにまたがる広大なアンジュー帝国ともいわれる領土を有するようになりました。ノルマン朝と同じく、宮廷ではフランス語が用いられ、フランスとの一体感が強い時代でしたが、王権に対して貴族と教会という封建領主の力が次第に強くなった時代でもありました。次のリチャード1世は、第3回十字軍に参加し、フランスでのフィリップ2世との争いに明け暮れてほとんどイギリスに居らず、その戦費のみが国民に賦課されて反発が強まりました。
③13世紀、王権の制限進む:
ジョン王は、再びカンタベリー大司教の任命権をめぐってローマ教皇と争って破門され、またフランス王フィリップ2世との争いにも敗れてフランス国内のノルマンディーの領土を失ったため貴族たちの離反を招きました。貴族たちは1215年に大憲章(マグナ=カルタ)をジョン王に認めさせて、従来の貴族の権限を保障し、国王といえども法に服するという原則が生まれました。次のヘンリ3世はマグナ=カルタを無視して諸侯に重税を課そうとして反発を受け、貴族の反乱が起き、国王は反乱軍の捕虜となってその要求に屈し、1265年に初めて議会が開設されました。さらに1295年にはエドワード1世がスコットランド遠征軍の費用を調達するため議会を招集、この模範議会が身分制議会としてのイギリス議会の始まりです。エドワード1世の時に宮廷で英語が話されるようになるなどフランス的な要素はうすくなり、イギリス国家としての基本的な骨格が出来上がりました。
④14世紀、百年戦争:
プランタジネット朝のエドワード3世は、フランス王位継承権を主張して1339年に百年戦争を引き起こしました。その背景には、三圃制農業の普及による農業生産力の成長に伴い羊毛生産が発展し、それを原料としている毛織物工業の盛んなフランドル地方を支配しようとしたことにありました。フランス側でも国内のアキテーヌ地方などのイギリス王室領を奪回することをめざしました。
戦いが長期化する中、イギリス国内では農奴制の矛盾が強まり、ワット=タイラーの乱が起こりました。農民反乱を鎮圧したリチャード2世は、議会を停止しようとするなど貴族や都市の商工業者の反感を買って廃位されてしまい、代わって1399年にランカスター家のヘンリ4世が、継承しランカスター朝となりました。次のヘンリ5世が、再びフランスを攻撃しましたが、次第にフランス軍に押され、ヘンリ6世の時、1453年に百年戦争は、イギリスがカレーを除くフランス国内の領土をすべて失うことで終結しました。
⑤15世紀、バラ戦争と封建領主の没落:
1455年、ランカスター朝のヘンリ6世に対し、同じプランタジネット家の傍系であるヨーク家のエドワードが、王位継承権を主張しバラ戦争に突入しました。1461年にはヨーク朝が成立しましたが、王位を簒奪したリチャード3世が暴政を行うと、大陸に亡命していたランカスター家の後継者ヘンリが、1485年のボスワースの戦いでリチャード3世を破って即位し、ヘンリ7世としてテューダー朝を開きました。このバラ戦争で、イギリスの封建諸侯は、二つの陣営に分かれて争い、内戦が長期化する中で没落して行き、かわって最終的な権力を握ったテューダー朝の王権に権力が集中し、絶対王政の態勢が形成されていくことになりました。
やまとこたろう
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