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13-4-1. 西洋諸国が世界中に残した黒い歴史 


キリスト教が世界中に広がり、世界中でもっとも多くの人々がキリスト教を信仰しています。しかし一方、西洋諸国による大量殺戮の歴史が、世界中にどす黒く残されています。


①西洋諸国は、ローマ教皇と二二人三脚で世界侵略を強引に推し進め、中南米では、宣教師が先導役となり、原住民を大量殺戮し全土を奪取しインカ文明とアステカ文明を滅ぼしました。北米では、インディアンを大量殺戮し全土を奪取しました。オーストラリアでは全土を奪取した後、原住民のアボリジニーたちをあたかもハンティングを楽しむように大量殺戮したという記録が残っています。


②強欲な西洋諸国は、お互いに争って支配地域を広げ富の強奪を強化し、長年にわたり巨万の富を蓄え続け、それらがルネッサンス・産業革命・国民国家形成・民主化の原資となりました。西洋諸国の国力は益々増大し、アジア・アフリカなど地表の85%を植民地支配するに至り、白人種優位の人種差別主義が地表を支配するようになりました。


③西洋諸国による侵略の脅威に直面した日本は、アジアで唯一例外的に短期間で近代化を実現し、ロシアの侵略を撃退することができました。第一次世界大戦後の戦勝国会議において、アジア唯一の参加国である日本は、米国の黒人差別撤廃運動とも連携し、人種差別撤廃条約を提案し多数派となりましたが、全会一致を強行に主張する米英により否決されました。その条約が批准され世界中の植民地を失うことを恐れた英国などが反対しました。


その後、米英の日本への圧力は強まり、日本は独立自衛・人種差別撤廃・アジアアフリカ植民地解放を掲げて、米英等と戦い敗れました。しかし、第二次世界大戦後、アジアアフリカ独立の大潮流が起き、現在約200カ国の独立国が国連に加盟するまでに増えました(第一次大戦後の国際連盟加盟国数は42)。


④西洋諸国は、あたかも非白人種を人間とみなさないかのごとく、奴隷貿易をほしいままにし巨万の富を築きました。アフリカで数千万人を捕獲し、アメリカへ強制移動させ、奴隷として動物の如く酷使しました。世界中に植民地を持つ世界最強の大英帝国はその富によって築かれたものです。


日本へ来たイエズス会とポルトガル商人は、九州の大名から日本人の捕虜などを買い取り、奴隷として売っていました。ちなみにそれを禁止し、奴隷を買い戻し、バテレン追放令を出したのは、豊臣秀吉でした。


⑤宗教戦争では、第一回十字軍で、このような記録が残っています。

「イスラム神殿で約一万人が首を切られた。もしあなたたちがそこに居合わせていたならば、 あなたたちの足は大腿部まで殺害された者たちの血の中に浸っていたであろう。これ以上何を語ったらよいか。敵の誰も命の助かった者はいなかった。女も子供も容赦されなかった」。


⑥南フランスのキリスト教異端派を弾圧するため十字軍が侵攻しました。その時、攻め込んだ地域の相手もみんなフランス人なので見分けがつきません。そこで十字軍は、「死ねばカトリックなら神の国へ召されるし、異端なら地獄に堕ちるから何の問題もない。とにかく皆殺しにせよ」と言ってせん滅したそうです。


⑦宗教改革でプロテスタントが現れると、激しい殺し合いが始まりました。17世紀にはドイツを中心としたプロテスタントとカトリック間の30年戦争で600万人が殺害され、当時のドイツの人口が2割減ったと言われています。 


⑧ヨーロッパ中に広がっていた反ユダヤ主義(イエスを処刑したユダヤ人への西洋人の怨みから来る)を背景に、ナチスドイツ政権により、ヨーロッパのユダヤ人の2/3にあたる約600万人が大虐殺されました。これがホロコーストです。


⑨その延長線上に、”yellow Jap 憎し怖し”とした米国による非道な広島・長崎への原爆投下がありました。無垢の女子供を標的にした民間人の大虐殺、核爆発の人体実験、重大な国際法違反、空前絶後の大虐殺テロです。



◯私感:西洋諸国は自国の利権獲得や強欲追求のために、イエスの教えを無視し、或いは都合よく勝手に解釈し、良心の呵責もなく敵対勢力を大量殺戮し、土地や資源や富などを強奪し続けてきました。彼らが残した植民地支配の傷跡は深く構造的であり、今も旧植民地の人々を苦しめています。


しかし、彼らは謝罪しません。損害賠償請求されるのを恐れているのでしょうか?密かに神に懺悔したのでしょうか?過去のことだ、今の我々には関係ないと思っているのでしょうか?さすがにホロコーストは謝罪しましたが。


このホロコーストを、ユダヤ人たちは神の試練と受け止め、想像を絶する苦悩を乗り越え、信仰を失わずユダヤ民族は力強く生き残っています。驚愕です、彼らの信仰心の強さには畏敬の念しかありません。なお、ユダヤ民族とは、人種ではなく、ユダヤ教を信じる人々のことだと定義されています。


イエスが、強欲な西洋諸国による大量虐殺についてどう言われるだろうか、という思いが浮かびました。「主よ、彼らは何をしているのか分からないのです」という十字架上のイエスの最後の言葉が思い出されます。イエスの教えがあってすら、かくもひどいい大量殺戮などがあったわけで、もしイエスの教えがなければ、もっとひどい事になっていたかも知れません。地表は強欲者たちによって支配されてきたのですが、さてこれからどうなるか?


                  やまとこたろう


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