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5−3.英国の先史・古代史の後半

 5−2.英国の先史・古代史 に続く後半を書きます。

 

⑤5世紀になって西ローマ帝国ゲルマン人の侵入によって混乱すると、ローマの軍団はブリテンを去っていきました。それにつれて、ブリテン島はゲルマン人の侵入にさらされるようになっていきました。

 

⑥5世紀頃からゲルマン人アングロ・サクソン諸部族がブリテン島に侵入し、先住民のブリトンたちを島の西に追いやり、島の南東部を征服しました。この結果、この地域には20もの小国家群が成立しました。それが次第に統合されていき、七つの王国の勢力争いとなっていきました。破れた者たちは多く奴隷とされ、一部は大陸にも売られました。

 

⑦8世紀になるとバイキングのデーン人(現代のデンマーク)の襲来が始まりました。デーン人は騎馬戦を得意とし、騎馬戦ができないアングロサクソン人を機動力で圧倒し、次第に内陸の深くまで侵攻・略奪するようになりました。七王国は団結してデーン人の侵略と戦いましたが、とてもかなわないので共生を狙い、デーン人がキリスト教に改宗したこともあり、和平条約を結ぶことが出来ました。しかし、領土の半分をデーン人の領地とし、デーン人の慣習と法を認めざるをえませんでした。

 

○私感:ブリテン島の歴史は10世紀までは何度も大陸勢力に侵略された歴史と言えるでしょう。武力で蹂躙され、虐殺され、略奪され、奴隷にされ、人身売買され、文化を破壊され、自尊心を打ち砕かれと、なんと凄まじい被侵略の歴史ではないでしょうか。日本は、かつて蒙古襲来を天皇と鎌倉武士団が一体となって撃退できましたが、もし撃退できなかったら似たようなことになったかもしれないと思うとゾッとします。蒙古・シナ・朝鮮の混成軍により、天皇武士は皆殺しされ、神社・寺院・文化遺産も破壊され、民衆は奴隷にされ地獄の苦しみを味わうことになっていたかもしれません。

蒙古軍がロシアを侵略し200年間植民地支配したことから、「弱ければ殺られる」というトラウマと恐怖がロシア人の性根に焼きつけられ、そのために強い独裁者(プーティン)を求める民族的性向ができたのではないかとも思われます。シナも同じような流れ或いはもっとシビアーな構造下にあると思われます。英国人の性根にも同じような「弱ければ殺られる」というトラウマがあり、それが世界侵略へと突き動かしていった負の原動力となったのではないでしょうか?欧州で絶対王権が多くでき王国同士の戦争が超多発した(英仏間だけでも20回以上)のもこのトラウマがあったからではないでしょうか?

有史以来比較的平和を、或いは例外的に平和を長く享受できてきた日本人は、今、もっともシビアーな極東の地政学的現実の真只中にいます。現代の黒船といわれるような事象が頻発しています。果たして日本人は太平の眠りから覚め、自らを守ることができるのでしょうか?

                             やまと こたろう

 

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