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8−1.世界宗教との出会い、英国では?日本では?

 6世紀に、それぞれの経緯で世界宗教に出会いました。英国は、597年にケント国王がアングロサクソン王として初めてキリスト教に改宗し、日本は、552年に仏教が公伝しました。

 

◯まず英国です。

キリスト教化する前のアングロ・サクソン族の宗教については、サクソン人が自然を崇拝し複数の神々を信仰していたとされています。しかし、どのようなものであったか分かっていません。ローマ教皇側からブリテン島にキリスト教を布教するため宣教師が送られましたが、異教徒のアングロ・サクソン族の教化は進みませんでした。

しかし、ケント国エゼルベルト王のキリスト教への改宗により、イングランドキリスト教化は一挙に進みました。エゼルベルト王は、イングランド東南部のケント国の王であり、アングロサクソン諸国に対しての「インペリウム」(最高軍事権力)を持った王の一人であり、「覇王」の称号も持っていました。

父は、先代のケント国王であり、妻ベルタは、当時西ヨーロッパで最強のフランク王国(496年にキリスト教に改宗した)の王女(キリスト教徒)でした。この婚姻によって両国は同盟関係となり、ケント国の安全保障が強化されました。また「アングロサクソン人たちをキリスト教に改宗すべし」というローマ教皇の命により修道士とともにアウグスティヌスが派遣されたことにも、妻ベルタの影響があったと言われています。

アウグスティヌスは、597年にケント国に到着し、到着後ほどなくエゼルベルト王はキリスト教に改宗しました。国王の改宗により、教会が建てられ、キリスト教が広がりはじめました。彼は、新たな教会を自国のカンタベリーに建て、その時礎として置かれた敷石が後のイギリス国教会の基礎となりました。後に、彼はアングロサクソン諸国にキリスト教を広めたことから聖人の地位に列せられました。

 

私感:異教徒エゼルベルト王へのキリスト教徒の妻の感化力が強く、最強国フランク国との同盟強化もあり、また自身の権威をローマ教皇キリスト教先進文化の権威により権威付けする意図もあり、王は改宗を決断したと思われます。

www.meisterdrucke.jp

 

イエス・キリスト は、 

「汝、殺すなかれ、盗むなかれ。左の頬を打たれたら右の頬を出せ。汝の隣人を愛せよ。天国の扉は狭く、赤子のごとくでなければ入れぬ。」と言われました。

しかるに、王が人民の生命財産を自由にする絶対王政が、数世紀から近代まで続いたと、歴史書に記されています。そのような王が、神の洗礼を受けて罪を許されたと称し、絶対王政が近代まで続いてきたとは、許されまじき欺瞞ではないでしょうか。

このような欺瞞、つまり、無辜の人間の生命財産を自由にする権利を神から与えられていると強弁する欺瞞が、西洋によるアジアアフリカ侵略と植民地支配を正当化する原型となったのではないでしょうか。

 

日本については、次に書きます。

                            やまと こたろう

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