スキップしてメイン コンテンツに移動

2.「ユニークな日本」て何?

 読者の方から「ユニークな日本文明とはなにか」に触れるといいと思うとの、コメントをいただきましたので、日本文明の特異性について、考えてみることにします。

 

①日本語は、世界で最も複雑で奥深い言語であり、日本文明はそれによって構造化されている複雑で奥深いユニークな文明であると言われています。例えば、文章は、神代文字・万葉仮名=やまと言葉・漢文・訓読文・漢字仮名交じり文、漢字・平仮名・片仮名・アルファベット・アラビア数字・絵文字などで書かれています。日本文明の現れとして、神話・祝詞・神楽・雅楽・お経・能・狂言・歌舞伎・浄瑠璃・都々逸・浪曲・落語・漫才・和歌・短歌・俳句・狂歌漢詩・茶道・華道・香道・書道・武士道・剣道・柔道・空手道・弓道などがあります。現代世界で最も広く愛読されている日本漫画や日本アニメも、この豊かな日本文明の一つの現代的現れと考えられますね。

 

②氷河期時代、ユーラシア大陸の一部であった日本列島は、地球温暖化により日本海が出現し、大陸と分離されるに至ったと言われています。日本列島は、山と河川が多く、滋味豊かな水が海に流れ込み河口周辺は豊かな漁場となっており、山の小動物、樹の実、山菜を採り、人々は平和で豊かな海彦山彦の生活を享受することができてきました。

一方、ユーラシア大陸では、騎馬民族の軍事力爆発により侵略・虐殺・破壊・略奪・拉致などが繰り返され、余波は今日に至っても続きいつ終わるのか期待薄であり、人々の平和な暮らしと各民族の固有文明が現在も破壊され続けています(蒙古軍のアジア・東ヨーロッパ侵略、中共少数民族侵略、現下のロシアの侵略などのように)。

幸いにも、日本は、日本海南シナ海の天然要塞と、日本人の不屈の精神により守られ、平和な営みを続け、二万年にわたって平和で豊かな日本文明を育んでくることができました。

それをベースとし、支那文明・天竺仏教・近代西洋文明などを、受け入れ、取捨選択し、磨き上げ、高次元化し、レヴィ・ストロースの表現を借りると、世界に類例のないユニークな日本文明が形成されてきました。そして、日本人のDNAには、この日本文明がプログラムされています。

 

③日本(やまと)は万世一系天皇(すめらみこと)がしらす国:
しらすというやまと言葉があります。「しらす」とは、武力や権力で民を所有し力により民を支配をすること(おしはく)ではなく、国を"家"、民(たみ)を"大御宝(おおみたから)"として大切にすることです。天皇は国と民の安寧を昼夜に祈り、稲(生命の糧)を育み幸せな民となるように自らも稲を育み、天皇臣に民のための政治をとる権力を親任され国の政(まつりごと)が行われることが基本的なありようとして今日まで至っています。天皇ご自身が、民との深い結びつきを通して民の苦しみや喜びを広く知り(しらす)、その在るべき姿を天皇自らがお示しになられつつ、「民と共に育み、民と共に歩んでいく」ありかた(しらす)が、神々の思し召しであると伝えられています。

これまで日本は、蒙古襲来、西洋の凶暴極まりない500年にわたる植民地支配の猛威、自衛と植民地解放のための大東亜戦争、敗戦、占領、大自然災害など幾多の国難に遭遇してきましたが、日本人は天皇を中心として力を合わせることによって、それらを乗り越えてきたのです。

www.sankei.com

現在の徳仁ナルヒト天皇陛下は、第126代(初代神武天皇から数えて)で、西暦(キリスト生誕が元年)2023年は皇紀2683年にあたられます。ちなみに、世界200カ国の内、王室のある国は28カ国です。王室の歴史の長さは、2位が、デンマーク(起源西暦900年、54代)、英国(1066年、40代)、スペイン(1479年、17代)、スウェーデン(1523年、6代)、タイ(1782年、10代)、バーレーン(1783年、11代)、オランダ(1815年、6代)、ベルギー(1830年、6代)、トンガ(1845年、6代)となっています。

                                  以上

 

ところで、別の読者の方から「世間では人工知能が万能だという宣伝がなされているが、対話を見るかぎり、文章構成能力が少し向上した検索エンジンに過ぎませんね。全く知性の感じられない応答が返ってきているので、勉強になりました。」というコメントを頂きました。確かにおっしゃる通りですね。今回も少しGPTを使いましたが、考え始める切っ掛けくらいにしか使えませんでした。
 
尚、コメントあれば何なりとお寄せください。考えていくヒントにさせていただきたいと思っています。

                              やまとこたろう

ランキングに参加中です。応援のためクリックお願いします。

  ↓          

にほんブログ村 歴史ブログへ 

コメント

このブログの人気の投稿

20.イギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドのGDPの推移;西暦0年から1900年代まで

①世界主要国であるイギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドについての面白いグラフを見つけました。西暦0年から1900年代までの世界主要国の GDPの推移にみるグローバル経済史の流れ です。クリックしてご覧ください。このグラフから、次のことが読み取れます。 西暦0年:アジアのインド、中国、日本のGDPが記されている。                      1500年:欧米のGDPの記載が始まった。                    1700年:インドと中国のGDPが近づき、日本とイギリスとドイツのGDPが近づいた。                           1820年:GDP1位中国、2位インドが0年から1870年まで続く。日本が停滞しイギリスとドイツが抜いた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                       1870年:日本をのぞく5カ国のGDPが近づいた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                              1913年:アメリカのGDP成長率が異常に大きい。他の5カ国の成長が鈍化。この年のGDPは、1位アメリカ、2位ドイツ、3位中国、4位イギリス、5位インド、6位日本。                               1972年:GDP1位アメリカ、2位日本、3位中国、4位ドイツ、5位イギリス、6位インド。                                   1998年:イギリス、ドイツ、日本が鈍化のまま、中国とインドが急成長。 ②このグラフに人口・国土・資源・生産性を重ねて考えてみると、時代ごとの特徴が見えます。                  ...

14-3.中世の日英比較。そして、未だ見ぬ次世代のあなたへ

  本年もよろしくお願いいたします。 さて、日英それぞれの中世時代を概観してきましたが、それを踏まえて両国の比較をしてみようと思います。 ①王朝の移り変わり: 英国では、王朝が武力闘争によりフランス出身のノルマン朝からプランタジネット朝、ランカスター朝、デューダ朝へと三回変わりました。その間に、国王が英国人意識を持つようになり宮廷の公用語もフランス語から英語に変わったそうです。日本では、元寇の危機と武家の権力闘争がありましたが、幸いにも万世一系の天皇制が維持されました。 ②対外戦争: 英国は、王位継承権をめぐってフランスと 百年戦争 ・バラ戦争と戦いましたが、フランス内の領土を失い、王族と貴族の対立が表面化していきました。日本は、蒙古襲来を武士・朝廷・武士・宗教界が一体となって撃退することができました。 英仏間のドーバー海峡の幅は約50kmで、軍事上の大きな障害とはならなかったようですが、朝鮮半島との間の対馬海峡の幅は約200kmで、台風も有り、日本の国防に大きな機能を発揮してきました。日本は日本海に守られているという感じがしますね、ありがたいことです。 ③政治: 英国では、戦争は王族の領土的野心や権力闘争のためであり、貴族は不承不承徴税や従軍に応じるか反発するかであり、キリスト教会は王族の恣意的な権力行使を抑制しようとしました。貴族たちは王権の制限を求め、 大憲章(マグナ=カルタ) を国王に認めさせ、さらに議会開催を認めさせました。日本では、朝廷対武士という対立は生じず、朝廷の親任のもとに武家の統領が政治を担うという政治体制が確立し、その後六百数十年続きました。 ④軍事力: 英国は、16世紀に海軍を作り17世紀に陸軍を作りましたが、軍事力は当時の海軍大国スペイン・陸軍大国に比べ貧弱だったようです。日本は、種子島に伝来した火縄銃の量産化に成功し、当時の英国と同数の火縄銃を九州の一地方国家が保有するほどまでに急成長した、という記録があります。 日本侵略を目論んでいたスペインは、宣教師から日本の軍事力を知り、先ず弱体化した明を征服し明軍も動員し、日本国内のキリシタン大名と呼応して、日本を攻略しようと考えていました。しかしその間に、当時世界最強だったスペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に破れるという番狂わせが起こったため、日本攻略の野望は消え去りました。 ⑤ 文学: 中...

19−2.日米関係; 日米不平等条約

    ①江戸時代後期、日本に多くの西洋列強の船が来航するようになりました。彼らは日本の市場で自分たちの商品販売を求めており、あわよくば植民地にしてしまおうと思っていました(帝国主義)。 実際に清はアヘン戦争に負け香港をイギリスに奪われています。江戸幕府もそのことを知っており相当な危機感を持っていました。 200年以上鎖国していた日本は、西洋との交流が極めて限定的だったため、当時の軍事技術は西洋列強と比べてかなり劣っていました。 アメリカ船の砲弾はこちらに届くが、こちらの砲弾は届かないなどといった感じです。そもそも海軍を持っていなかったこともあり、アメリカの軍艦になすすべがありませんでした。 そんな圧力を受けながらの交渉だったため、植民地化という最悪の事態を避けるためには、条約を拒否するという選択はありえませんでした。 ②1854年(嘉永7年)に結ばれた日米和親条約は、アメリカの捕鯨船に対する燃料の補給など限定的な内容でしたが、1858年(安政5年)に結ばれた日米修好通商条約は、日本に強く開国を求め多くの不平等な内容を含んでいました。 江戸幕府からこの条約を引き継いだ明治政府は、不平等な内容を改正するのに大変な苦労をすることになります。 日米修好通商条約が不平等条約と呼ばれたのは、アメリカの領事裁判権を認めたことと片務的な協定関税率制度を採用したという点です。またその前の日米和親条約で締結された片務的最恵国待遇も日米修好通商条約で引き継がれており、これも不平等な点です。 ③領事裁判権を認めるとはどういうことかというと、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本の法律では裁けずアメリカの法律で裁くということ(治外法権が認められるということ)です。そのためアメリカ人に甘い判決が出るなどの弊害が出ました。 ④協定関税率制度というのは関税を決めるのに相手国の同意が必要で関税自主権がないということです。片務的なものですから日本が関税を変更するにはアメリカの同意が必要ですが、アメリカが関税を変更するには日本の同意が必要ではありません。 ⑤最後に片務的最恵国待遇ですが、これはアメリカ以外の国と同じような条約を結び、アメリカと結んだ条約よりも有利な条件があるときは、アメリカにも自動的にその条件が当てはめられるというものです。これも関税率と同じくお互いの国が最恵国待遇を受...