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6月, 2025の投稿を表示しています

40-2/2.大正デモクラシー の真実 〜教育政策の重要性〜

④ 国民の質と国家の質 日露戦争が終わり平和な時代になると、こうした教育の成果として、政治や文化などについて自分の頭で考え、意見を表明できる国民が格段に増えていました。つまり、 国民の「質」が向上していたのです。 国民の質は、そのまま国家の質に直結します。もし国民が十分な知識や教養を持たなければ、国民の意見を政治に反映させようとする民主主義は、そもそも根本から成り立ちません。仮に無理に導入したとしても、無知な国民が選んだ無能な政治家が国を動かせば、国は悪い方向へ進んでしまうのは目に見えています。 当時の日本国民は、そうならないだけの知的水準に既に達しており、これはまさに誇るべきことです。つまり、この時期に普通選挙ができるレベルにまで国民の質が向上していたのは、 明治政府が長年力を入れてきた教育政策が、およそ50年の時を経てようやく実を結んだ証拠 なのです。教育とは「国家百年の計」と言われるように、すぐに結果が出るものではありません。しかし、その長期的な視点こそが、日本の民主化を可能にしたのです。 ⑤ 戦後の教育政策が抱える課題 こうした歴史を踏まえると、戦後の日本の教育政策が抱える問題点も見えてきます。目先の学力向上だけにとらわれ、ころころと政策を変えているようでは、真に国家の未来を担う人材は育ちません。 明治政府のように、 50年後、100年後の日本人のあるべき姿を明確にイメージし、そのイメージを実現するための教育政策を打ち出し続けることが不可欠です。 「ゆとり教育」や「総合的な学習の時間」の導入に際しても、現場の先生方の並々ならぬ努力があったにもかかわらず、試行錯誤の末にようやく成果が出始めた頃には、「学力が低下した」という短絡的な理由で政策が撤回される、といったことが繰り返されてきました。 このようなブレのある教育政策は、現場の先生方の士気を低下させ、ひいては教育全体の質の低下を招きます。さらに、当時「ゆとり世代」と呼ばれた児童・生徒たちは、自分たちの意志とは関係なくそのような教育を受けたにもかかわらず、その後の世代から「これだからゆとり世代は」と揶揄されるという不条理も生じました。 私たちは、過去の成功と失敗から学び、未来を見据えた地に足のついた教育政策を推進していく必要があります。日本の未来を拓くのは、確かな知識と教養、そして主体的に考える力を持った国民を...

40-1/2.大正デモクラシー の真実  〜「戦前=独裁」という誤解を解く〜

①「戦前=独裁」という誤解を解く 第二次世界大戦後、「日本はアメリカに敗れ、それまでの独裁政治が終わ り、 アメリカによって民主主義を教えられた」という認識が多くの人に広ま っているように思われます。しかし、これは歴史の真実を捉えきれていない 大きな 誤解 です。なぜなら、日本は明治維新以降、他国から押し付けられる ことなく、自ら進んで西欧の近代的な政治制度や思想を取り入れ、民主主義 的な発展を遂げていったからです。 むしろ、アメリカが民主主義の導入を「指導」したという見方は、戦後の 占 領政策を正当化 するための 歴史観 に過ぎません。日本は、明治憲法下で 議 会制民主主義の基礎 を築き、国民の政治参加を段階的に拡大していました。 ② 大正デモクラシーの真実 大正時代は、まさに日本における民主主義的な考え方が大きく花開き、現在の日本の政治体制に近い形がほぼ確立された時期と言えます。この時期に広まった民主主義の考え方は、主に 基本的人権、国民主権、三権分立 という三つの柱から成り立っていました。 具体的には、 天皇制 を維持しつつ、選挙で国民が選んだ 政党が内閣 を組織し、国民の意見を政治に反映させようという動きが知識層から活発化します。これをきっかけに、身分や財産に関わらず全ての男性に選挙権を求める普通選挙運動が全国的に高まりました。 そして1918年には、本格的な政党内閣として原敬内閣が成立します。この原敬は、皇族や士族出身ではない**「 平民宰相 」**として国民から大きな期待を集めました。その背景には、日清・日露戦争を経て国家意識が高まった国民が、より直接的な政治参加を求めるようになったことがあります。 さらに重要なのは、1925年にはついに 普通選挙法 が制定され、満25歳以上の全ての男性に選挙権が与えられたことです(イギリスで男性普通選挙が実現したのは1918年、ドイツは1919年)。これは、天皇独裁国家というイメージとはかけ離れた、極めて 先進的な民主化の進展 と言えるでしょう。当時の 投票率 はなんと 80% を超えており、当時の一般国民の政治意識の高さがうかがえます。 ③ なぜ民主化を実現できたのか 日露戦争後に日本で民主化を求める動きが広がり、それが実際に実現できた 背景には、複数の要因があります。 まず、日露戦争に勝利したことで、日本の国際的地...

39.中国近代化の挫折 〜辛亥革命、中華民国、中華人民共和国〜

  今回は1911年に起こった辛亥革命 シンガイカクメイ と、その後に続いた中華民国の時代について考察します。 辛亥革命と日本の期待 1910年の韓国併合の翌年に発生した辛亥革命は、清朝の帝政を打倒し、共和制国家である中華民国の成立を促しました。日露戦争で日本がロシアから満州の権益を清国に返還するなど、当時の日本と清国との関係は良好でした。清国では、明治維新によって驚異的な速さで近代化を遂げ、ロシアを打ち破るまでに成長した 日本への留学 が盛んに推奨されていました。日本への留学は高級官僚への必須条件となるほどで、多くの中国人留学生が日本の進んだ制度や社会を目の当たりにしました。 しかし、この日本留学は、皮肉にも清朝の寿命を縮める一因となります。 孫文 をはじめとする留学生たちは、日本と清国の間の圧倒的な国力の差に愕然としました。そして、「このままでは清国は滅びる。日本のような近代化を達成するためには、我々が立ち上がり、新しい国家体制を築くしかない」と考えるようになります。彼らのこの思いが、辛亥革命の原動力の一つとなったのです。 日本にとって、辛亥革命による共和制への移行は、好ましい展開でした。中国が近代化し、強力な国家となることは、日本の安全保障上も望ましいことだったからです。 袁世凱の死と群雄割拠の時代 しかし、革命後の道のりは決して平坦ではありませんでした。辛亥革命を主導した孫文の後を継いだ袁世凱 エンセイガイ が1916年に死去すると、中国大陸は混乱に陥ります。各地の有力者たちがそれぞれ「自分が真の後継者だ」と主張し、内輪揉めを始め、あたかも日本の戦国時代のような群雄割拠の状態となりました。中華民国という一つの国の中に、複数の勢力が「我々こそが正統な政府である」と主張し、争い合う事態となったのです。 コミンテルンの介入と国共合作 この中国の混乱に目をつけたのが、ソ連が世界革命を目指して設立した国際組織、コミンテルンでした。コミンテルンの工作員たちは、中国国民党に対し、武器や資金の援助をちらつかせながら、その内部に深く浸透していきました。その結果、 蒋介石 率いる中国国民党は、コミンテルンの援助を受けながら中国大陸の統一を進めることになります。 中国共産党の台頭と日中戦争の画策 しかし、中国共産党の最終目標は、中国国内での社会主義革命の達成であり、そ...