スキップしてメイン コンテンツに移動

国民の人気者小泉といまだに誤認している議員の方々、今や多くの国民の怒りの対象となってますよ、その事例は:

 ・仙台で「支援される側でなく、未来の被災地を支援する側に回るような発想ができれば、私は日本人らしさを発揮できる復興ができるんじゃないかと思っています」と最低の発言で、被災者を侮辱した。国民は、「政治家失格者を総理に推す輩にしっぺ返し」と怒っている。


・Q「菅グループの支援は派閥ではないか」A「どなたであれ支援していただければありがたい」。
質問aに対しbと答える小泉構文が他でも度重なり、国民は「質疑応答できない総理はやめて」と怒っている。

・Q「カナダG7で何を訴えるか」A「同世代のトルドー首相と胸筋を開いて新たな未来志向の外交を切り開いていく」。
この通り発言したら、世界のリーダーたちから総スカン、日本をスルーした外交が展開する。

・Q「私は40歳までの大学ローンがあり困っている、どうしたらいいか」A「大学だけが人生じゃない、料理人になって活躍する道もある」。
相手の感情を逆なでしていることも理解できようでは、国民の反感が高まるばかり。

・解雇規制緩和⇒熱烈な進次郎ファンであった若い女性層や、サラリーマン層がドン引き、首切り王子だ。

・岸田増税路線を引き継ぐ⇒重税に苦しむ国民が増税王子だとの怒り。

・夫婦別姓⇒日本の良き家族関係の破壊だとの怒り。

・年金支給年齢80歳⇒国民に年金制度破壊と思われた。真意を国民に伝える能力がなく反感を買った。政策実現力ゼロ。



高市早苗さんを推してます。やまとこたろう


ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

 にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

37.日韓併合 〜その実情

  今回は、日露戦争のわずか6年後の1910年に行われた 日韓併合 について見ていきたいと思います。 ①日韓併合の背景:大韓帝国の実情と日本の安全保障 日韓併合は、日本が武力で一方的に制圧・占領したものではなく、当時存在した 李氏朝鮮の最後の姿である大韓帝国が、日本の統治下に入ることを選択し、「韓国併合に関する条約」によって実現したもの です。 日韓併合の対象となった大韓帝国は、現在の韓国と北朝鮮を合わせた朝鮮半島一帯を統治していた国です。元々「朝鮮」あるいは「李氏朝鮮」という国名でしたが、この王朝は1392年から約500年間朝鮮半島を支配していました。高麗の臣下であった李氏が明の力を借りて建国した経緯から、 明、そしてその後の清の属国として長い歴史 を歩みました。 李氏朝鮮時代の約500年間は、両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級が権力を握り、多くの国民が貧困と搾取に苦しんでいたとされています。人口も減少傾向にあり、文化的な停滞も見られました。これについて歴史家の崔基鎬(チェ・ギホ)氏は、「他力本願ながら李朝の歴史に終止符を打った日韓併合は、この民族にとって千載一遇の好機であった。これを否定することは歴史の歪曲である」と述べています。日韓併合前の朝鮮半島は、このように国民の窮乏と文化的な停滞が長く続いた歴史を持っていました。 1895年の 日清戦争 で勝利した日本は、その後の日露戦争を経て、清の支配から李氏朝鮮を独立させました。これにより、朝鮮半島は500年ぶりに独立し、 大韓帝国が成立 したのです。 ②ロシアの南下政策と日本の危機感 話は前後しますが、当時の日本にとって最大の脅威は ロシアの南下政策 でした。ロシアの勢力が朝鮮半島まで南下すれば、北海道のすぐ北にある樺太(サハリン)と、九州の北に位置する朝鮮半島によって日本は挟撃される形となり、日本の安全保障は一層深刻なものになります。そのため、 朝鮮半島は日本にとって、何としても死守しなければならない生命線 でした。 しかし、国力が衰退していた李氏朝鮮には、自力でロシアの脅威から朝鮮半島を守る力はほとんどありませんでした。そこで日本は、朝鮮半島の近代化を支援し、ロシアの進出を阻もうとしましたが、長年宗主国として朝鮮を属国化していた清国は、当然これを許そうとしませんでした。 ③日清・日露戦争と日本の影響力確...

満洲国の発展:五族協和と王道教育 53-4

3. 五族協和と王道教育 🎌 3-1. 多民族共存の試み:「五族協和」 満州国の基本理念は、「 五族協和 」と「 王道楽土 」でした。これは、人種平等を原則とし、満州人、漢人、日本人、朝鮮人、蒙古人の多民族間の協調と共存を目指し、当時の世界では先進的な試みでした。 民族構成: 満州人、漢人、日本人、朝鮮人、蒙古人、白系ロシア人 多言語の尊重: 主要な公文書や標識には、日本語、中国語、モンゴル語などが併記され、多民族国家としての統治が形式上は謳われました。 3-2. 社会基盤の近代化 漢人の軍閥時代には教育機会が極めて限られていましたが、 満州国では教育と公衆衛生の近代化が図られました。 王道教育の普及: 各民族の子供たちに教育の機会を与えるため、小学校の設立が積極的に行われました。 人材育成: 五族協和の理念を体現するエリート育成機関として 建国大学 が設立され、民族や階級を問わず、広く人材が登用されました。 公衆衛生の改善: 満鉄病院を筆頭に近代的医療が導入され、衛生状態の悪かった地域で伝染病対策が進みました。 4. まとめ 満州国建国後の施策は、 工業生産額の年平均約10%成長 、 鉄道総延長の倍増 といった数値に裏付けられるように、経済的な繁栄と社会の近代化を目指した、大規模な国家建設でした。満州国時代に築かれた産業基盤は、現代の中国東北部(旧満州地域)の経済、ひいては新中国建国初期の経済発展に貢献する大きな遺産を残しました。             やまとこたろう ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。    ↓          ↓ にほんブログ村                

満州国の発展:統計が語る「正の遺産」と理念の検証 53−3

1. 歴史の「光」に焦点を当てる 満州国(1932年~1945年)と聞くと、多くの人は、日本の軍事的関与や、歴史の「負の側面」を連想するかもしれません。確かに、その樹立過程と統治の実態には様々な論点が存在します。 しかし、その影に隠されがちなもう一つの事実があります。それは、満州国が、混乱した軍閥支配から脱却し、 アジアの未来を見据えた驚異的な速度で近代化を達成した、大規模な国家建設プロジェクト であったという点です。 本稿では、当時の中国大陸では類を見ない規模のプロジェクトであった満州国の発展を、感情論ではなく、 具体的な統計データ で検証します。計画経済による 産業の飛躍 、 インフラの劇的拡大 、そして 多民族共存の理念 という「正の遺産」に焦点を当てて迫ります。 2. 驚異的な飛躍:経済とインフラのデータが語る事実 満州国政府は、天然資源を活用した重工業化を推進し、後の中国東北部(東三省)の経済基盤を築きました。その発展は、当時の世界でも稀に見るものでした。 A-1. 計画経済が生んだ「アジアの奇跡」 満州国は、五カ年計画などの計画経済を通じて工業生産の急速な拡大を図りました。 1930年代を通じて、満州国の工業生産額は、 年平均約10%という驚異的な成長率を維持しました。これは当時の世界経済において非常に稀な高成長であり、「計画的な産業開発」が実を結んだ ことを示す強力な裏付けです。 A-2. 鉄鋼生産の頂点 重化学工業の中核を担ったのは、鞍山 アンザン 製鉄所(満州製鉄)です。 鞍山製鉄所 を中心とした粗鋼生産は、ピーク時に 年間 約200万トン に達しました。これは当時の日本の総生産量には及ばないものの 、 中国大陸においては圧倒的な規模 を誇り、満州を アジア有数の重工業地帯 へと変貌させました。 この基盤は 、戦後の中国東北部の工業復興においても重要な役割を果たしました。 A-3. 国土を結ぶ大動脈:満鉄の役割 南満州鉄道(満鉄)は、単なる鉄道会社ではなく、満州経済開発の心臓部であり、「満州国の中の満州国」とも呼ばれました。 約15年という短期間で鉄道総延長は 約11,500kmへとほぼ倍増 しました。この緻密で広大な鉄道網の整備は、資源輸送と都市間連携を可能にし、 国家建設のエンジン としての満鉄の役割の大きさを物語っています。        ...