スキップしてメイン コンテンツに移動

25−1.幕末の日本はなぜ欧米列強に植民地支配されなかったのか?

 いろいろな見方がありますが、ここでは産業の観点から見てみます。


◯中国やインド:                               

産業革命以前には、両国はGDP・人口ともに世界1位2位を占めてきましたが、産業革命を経た欧米の工業製品の大量流入により国内産業が破壊され尽くし、欧米に植民地支配され国富を収奪され続けることになってしまったたのです。

インドでは、歴史的にインド経済を大きく支えたてきた伝統的綿織物産業がイギリス産業革命により完全に破壊されました。自ら栽培した綿花を廉価で全てイギリスに持っていかれ、イギリスで機械化によて生産された織物に頼るしかない状況が作られ、国富は止めどなくイギリスに流出し、イギリスはインドから収奪した富を原資とし、更にインド傭兵を使役して、七つの海を支配する大英帝国を構築していきました。


◯プロト工業化(工業化の原型):                  

日本にも同様の危険性がありましたが、開国前に日本の農村では商品を大量に生産するプロト工業化が始まっており、そのことが開国後の急激な近代工業化の受け皿となり欧米の工業製品の大量流入による国内産業崩壊を防いたのでした。例えば、蚕から生糸を作りそれを大量に加工・販売する工業的な仕事の仕組みが出来上がっていました。


◯全国にまたがる商品経済:                          

このようなプロト工業化による様々な商品が全国に流通することによって、開国する前から日本では全国にまたがる商品経済が発展していました。更に各地の藩も競って藩内の産業を育成する施策を行いました。そして各地の商品が全国へ行き交った結果、人々の交流も盛んになり、江戸や大阪など文化の進んだ地域から全国へ新しい知識が伝わっていきました。

そのため欧米との貿易が始まっても、日本国内の産業が簡単には崩壊しませんでした。むしろ、日本の技術力を武器に加工品を海外に販売して利益をあげた越前藩、長州藩、薩摩藩など多くの藩がありました。それらの藩はその資金で軍備・人材教育を充実させました。このようにして経済力・政治力をもった雄藩が幕末に力を発揮したのです。


◯開国後の生糸をめぐる各国の思惑:                      

日本の輸出品の80%は生糸で、輸入品の70%は綿織物・毛織物で残りは兵器・艦船等の軍事物資でした。不平等条約により関税自主権がなかっため、安い欧米製品が大量に入り日本の貿易収支は赤字でした。

とはいえ、日本は国内産業が潰されることはありませんでした。その背景に世界中で生糸が不足していたことがります。特に欧州では蚕に微粒子病が蔓延したため、生糸の生産量が半減しました。特にフランスでは、微粒子病のため生産量が五分の一に激減しました。

一方、日本ではプロト工業化により生糸の生産量が増え、生糸は輸出品として大人気となりました。明治に入ると、近代化が進み欧州から製糸機械が輸入され、富岡工場等の大規模な製糸工場が作られていきました。その結果、外貨を稼げる生糸は殖産興業のエースとなりました。最盛期には世界一の生産力をなり、日本に大きな富をもたらしました。

日本はこの外貨を使って重工業・鉄道など他の産業を発展させ、それが日本の独立を守り、さらなる近代化へとつながっていったのです。


◯戊辰戦争の時の植民地化の危機:            

薩長側にはイギリス、幕府側にはフランスが味方していました。内戦が長期化すると外国の力に頼る必要が出てきて、その弱みに付け込み国を乗っ取られる危険性があったのです。

しかし幸いにも、日本には権力者の上に権威者である天皇がおられ(しらす政治の伝統)、国家存亡の危機に当たり、薩長・幕府の対立を乗り越え天皇の下に大同団結し、政治権力を天皇に還し、藩を廃し県を置き、列強に対抗できる強力な中央集権国家を作ることができたのです。


                 やまとこたろう                



ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

20.イギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドのGDPの推移;西暦0年から1900年代まで

①世界主要国であるイギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドについての面白いグラフを見つけました。西暦0年から1900年代までの世界主要国の GDPの推移にみるグローバル経済史の流れ です。クリックしてご覧ください。このグラフから、次のことが読み取れます。 西暦0年:アジアのインド、中国、日本のGDPが記されている。                      1500年:欧米のGDPの記載が始まった。                    1700年:インドと中国のGDPが近づき、日本とイギリスとドイツのGDPが近づいた。                           1820年:GDP1位中国、2位インドが0年から1870年まで続く。日本が停滞しイギリスとドイツが抜いた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                       1870年:日本をのぞく5カ国のGDPが近づいた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                              1913年:アメリカのGDP成長率が異常に大きい。他の5カ国の成長が鈍化。この年のGDPは、1位アメリカ、2位ドイツ、3位中国、4位イギリス、5位インド、6位日本。                               1972年:GDP1位アメリカ、2位日本、3位中国、4位ドイツ、5位イギリス、6位インド。                                   1998年:イギリス、ドイツ、日本が鈍化のまま、中国とインドが急成長。 ②このグラフに人口・国土・資源・生産性を重ねて考えてみると、時代ごとの特徴が見えます。                                   17世紀まで:インド・中国的世界(アジア的世界)  人口が多く、国土・資源が多く、生産性が低い                                18・19世紀:イギリス的世界(20世紀後半のドイツ・日本・韓国も)  人口が少なく、国土・資源が少なく、生産性が高い                     19・20世紀:

19−2.日米関係; 日米不平等条約

    ①江戸時代後期、日本に多くの西洋列強の船が来航するようになりました。彼らは日本の市場で自分たちの商品販売を求めており、あわよくば植民地にしてしまおうと思っていました(帝国主義)。 実際に清はアヘン戦争に負け香港をイギリスに奪われています。江戸幕府もそのことを知っており相当な危機感を持っていました。 200年以上鎖国していた日本は、西洋との交流が極めて限定的だったため、当時の軍事技術は西洋列強と比べてかなり劣っていました。 アメリカ船の砲弾はこちらに届くが、こちらの砲弾は届かないなどといった感じです。そもそも海軍を持っていなかったこともあり、アメリカの軍艦になすすべがありませんでした。 そんな圧力を受けながらの交渉だったため、植民地化という最悪の事態を避けるためには、条約を拒否するという選択はありえませんでした。 ②1854年(嘉永7年)に結ばれた日米和親条約は、アメリカの捕鯨船に対する燃料の補給など限定的な内容でしたが、1858年(安政5年)に結ばれた日米修好通商条約は、日本に強く開国を求め多くの不平等な内容を含んでいました。 江戸幕府からこの条約を引き継いだ明治政府は、不平等な内容を改正するのに大変な苦労をすることになります。 日米修好通商条約が不平等条約と呼ばれたのは、アメリカの領事裁判権を認めたことと片務的な協定関税率制度を採用したという点です。またその前の日米和親条約で締結された片務的最恵国待遇も日米修好通商条約で引き継がれており、これも不平等な点です。 ③領事裁判権を認めるとはどういうことかというと、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本の法律では裁けずアメリカの法律で裁くということ(治外法権が認められるということ)です。そのためアメリカ人に甘い判決が出るなどの弊害が出ました。 ④協定関税率制度というのは関税を決めるのに相手国の同意が必要で関税自主権がないということです。片務的なものですから日本が関税を変更するにはアメリカの同意が必要ですが、アメリカが関税を変更するには日本の同意が必要ではありません。 ⑤最後に片務的最恵国待遇ですが、これはアメリカ以外の国と同じような条約を結び、アメリカと結んだ条約よりも有利な条件があるときは、アメリカにも自動的にその条件が当てはめられるというものです。これも関税率と同じくお互いの国が最恵国待遇を受けるのなら不平等で

14-3.中世の日英比較。そして、未だ見ぬ次世代のあなたへ

  本年もよろしくお願いいたします。 さて、日英それぞれの中世時代を概観してきましたが、それを踏まえて両国の比較をしてみようと思います。 ①王朝の移り変わり: 英国では、王朝が武力闘争によりフランス出身のノルマン朝からプランタジネット朝、ランカスター朝、デューダ朝へと三回変わりました。その間に、国王が英国人意識を持つようになり宮廷の公用語もフランス語から英語に変わったそうです。日本では、元寇の危機と武家の権力闘争がありましたが、幸いにも万世一系の天皇制が維持されました。 ②対外戦争: 英国は、王位継承権をめぐってフランスと 百年戦争 ・バラ戦争と戦いましたが、フランス内の領土を失い、王族と貴族の対立が表面化していきました。日本は、蒙古襲来を武士・朝廷・武士・宗教界が一体となって撃退することができました。 英仏間のドーバー海峡の幅は約50kmで、軍事上の大きな障害とはならなかったようですが、朝鮮半島との間の対馬海峡の幅は約200kmで、台風も有り、日本の国防に大きな機能を発揮してきました。日本は日本海に守られているという感じがしますね、ありがたいことです。 ③政治: 英国では、戦争は王族の領土的野心や権力闘争のためであり、貴族は不承不承徴税や従軍に応じるか反発するかであり、キリスト教会は王族の恣意的な権力行使を抑制しようとしました。貴族たちは王権の制限を求め、 大憲章(マグナ=カルタ) を国王に認めさせ、さらに議会開催を認めさせました。日本では、朝廷対武士という対立は生じず、朝廷の親任のもとに武家の統領が政治を担うという政治体制が確立し、その後六百数十年続きました。 ④軍事力: 英国は、16世紀に海軍を作り17世紀に陸軍を作りましたが、軍事力は当時の海軍大国スペイン・陸軍大国に比べ貧弱だったようです。日本は、種子島に伝来した火縄銃の量産化に成功し、当時の英国と同数の火縄銃を九州の一地方国家が保有するほどまでに急成長した、という記録があります。 日本侵略を目論んでいたスペインは、宣教師から日本の軍事力を知り、先ず弱体化した明を征服し明軍も動員し、日本国内のキリシタン大名と呼応して、日本を攻略しようと考えていました。しかしその間に、当時世界最強だったスペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に破れるという番狂わせが起こったため、日本攻略の野望は消え去りました。 ⑤ 文学: 中世ヨーロ