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26-2. 明治維新政府に学ぶ教育の大切さ

①明治維新政府は、日本の近代化のために何をしたか?この頃の政府のキーワードは、「富国強兵」だと言っても過言ではないでしょう。富国強兵とは、まず金を稼いで国を富ませ、軍事力を強くするということですね。当時は、西洋列強による植民地支配の絶世期であり、弱ければ侵略され植民地にされてしまうというのが当たり前の時代でしたから、軍事力を高めるということは絶対必要なことですね。で、軍事力を整えるためには金を稼がないと話が先に進みませんから、当然国を富ませようということになるわけです。明治政府はこの富国強兵のために様々な施策を行っていきますが、すべては書ききれないので、ここでは三つについて述べてみようと思います。殖産興業、徴兵令、教育制度改革の三つです。


②一つ目は殖産興業です。具体的には、西洋から高給で技術者を雇い、日本人に技術を学ばせたり、日本政府が最新の製造工場を建てたり、形ができたら政府が民間に安く払い下げたりして、日本の近代化を効率よく進めました。当初はものすごく金がかかったのですが、短期間で日本を近代化し資本家を育成することに成功しました。日本人は今も昔も製品を改良することに関しては世界トップレベルを持っていますから、非常に効率の良いやり方だったと言えるでしょう。 


③二つ目は徴兵令を出して、国民の国防意識の向上を図りました。一定の年数の兵役を義務付けることにより、国防を身近なものと感じてもらい危機管理意識を高めたということですね。平和ボケでは、いざ事が起ってしまった時に何もできませんからね。


④三つ目は、学制の発布により、それまで制度化されていなかった小学校の義務教育を制度化しました。教育が富国強兵に関係あるのかと疑問に思われるかもしれませんが、実は、この教育というのがもっとも重要なのです。


まず、大前提として、日本という国は日本人が集まってできている国です。つまり、日本人が豊かにならなければ、日本という国が豊かになることはないのです。私たち一人一人の質が国家の質なのです。何が言いたいかと言うと、もしも、日本人が読み書きもできません、簡単な計算もできません、自分のことしか考えないバカばっかりです、とこんな状況だったとしたら、折角西洋から最新の技術を導入しても使いこなせないですよね。ましてや、改良してより良い物を造るなどということは絶対無理です。分かりやすく言うと、ちゃんと造ったのに、ネジが百本も余ってしまって「まあ、いいか?」、とその結果、爆発!などと、どこかのパクリ国家のような惨状になってしまうわけですよ。


このことは、あの福沢諭吉も有名な『学問のすゝめ』の中で述べています。明治政府はこのことをちゃんと理解していたからこそ、富国強兵に直接関係がなさそうな教育にも力を入れたというわけです。


⑤現代のように、詰め込み過ぎは良くないからゆとりを持たせましょうとやった結果、学力が下がったので、やはり学習を増やしましょうとか、目先の状況でコロコロ方針を変えているようでは、教育を受ける生徒たちが困りますよね。教育は百年の計ですから、明治政府にならって、50年後100年後の日本をどうしたいのか、こういう明確なビジョンを持って教育に当たるべきではないでしょうか?


                            やまとこたろう


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