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13-1-2. 仏教の開祖と聖典   


仏教の開祖はブッダ(仏陀)で、覚者カクシャという意味です。釈迦シャカ王国出身の仏陀ブッダ(覚者)ということから、釈迦牟尼仏シャカムニブツとも呼ばれています。普通の人間であり、奇跡を起こしたことはありません。約2600年前、現ネパールにあった釈迦王国カピラ城のシッダルタ太子として生まれ育ちました(仏生カピラ)。

29歳の時、人間は何故苦しむのか、苦しみから解脱する道はないのかという問題意識から、家族と王城を捨て出家し、6年間激烈な苦行をしました。苦行は悟りの因にあらずとさとり、乳粥チチガユの供養クヨウを受けて、マガダ国(釈迦王国を滅ぼしたインド東北部の大国)の菩提樹下ボダイジュゲに坐し、明けの明星ミョウジョウの時、真の自己のありように目覚めました!(成道マカダ)。その時の法悦を「大地有情ウジョウ同時成道ジョウドウ!」(我れと大地とあらゆるものは同時に道を成就した!)と言い表しました。人々は、彼を覚者(覚った人、ブッダ)と呼ぶようになりました。

ブッダは、虚妄コモウの自我に執着する人間や神々には、この覚りを理解することはできないと思い、涅槃ネハン(悟りを得て現世を離れること)に入ろうと考えました。それを知ったブラフマー(梵天ボンテン)をはじめとする天上の神々が、説法を再三お願いすると、ブッダは、「わたしは、あなたの勧請カンジョウを受け入れ、甘露カンロの法雨ホウウを降らせよう!すべての人々よ、神々も鬼神たちも、すべての耳のあるものは、この法を聞くがよい!」と言いました。

ブッダは、ベナレス(ガンジス河畔にあるインド最大の聖地)で最初の説法を行い(説法ハラナ)、それから45年間、三衣サンネ一鉢イッパツ(三枚の衣と一つの食器)だけを所有し、一日一食イチジキの乞食行コツジキギョウ(鉢を持ち無言で食ジキの供養クヨウを受ける行)でいのちをつなぎ、真の自己のありように目覚める道を人々に説き、多くの人々を済度サイド(迷妄の中にいる衆生を真の自己のありように目覚めさせること)し、夜は樹下で眠ったと言われています。或いは夜に神々が教えを聞きに来たとも言われています。

ブッダは、故郷カピラに向かう旅の途中のクシナガラで、供養された食物が原因で下血し路傍に倒れました。枕元に集まってきた弟子たちに、その供養者を決して恨んではならないと言い、『真の自己を生きる者の八つの心得』を説き、「私が亡くなった後は、真の自己のありようを拠り所として生きていくように」(自灯明法灯明)と最後の言葉を残されました。その時、ブッダは80歳でした(入滅クチラ)。周りに様々な動物たちも集まって、死を悼んだと言われています。

ブッダは輪廻転生リンネテンセイから解脱ゲダツした人なので、再び生まれてくることはありません。「○○はブッダの生まれ変わりだ」などということがあったら、それはフェイクです。

仏教とは、真の自己のありようを説く教えです。ブッダの45年間の言行録などが、後に弟子たちによってまとめられ(結集ケツジュウ)、七千余巻といわれる膨大な『一切経』が遺されました。  


ちなみに、ヒンズー教は、インド亜大陸に侵入し、カースト制度により先住民を支配したアーリア人種(インド・アーリア語族)が持ち込んだバラモン教を母胎とし、仏教教義を多く取り入れた民族宗教です。多神教であり、ブッダはヴィシュヌ神(ヒンズー教三神の一柱)の化身とされています。仏教とは親和性が高く、仏教の守護神十二天などとして仏教にも取り入れられ、日本にも伝わり、柴又の寅さんで有名な帝釈天タイシャクテンなど各地で人々に親しまれています。イスラム侵入後、国教的位置づけにあった仏教は徹底的に弾圧され、仏教はインドから消されてしまいました。

しかし最近では、日本人僧侶の活動もあり、ヒンズー寺院に入れないカースト最下層に仏教が広まり1億人くらいに増えてきているという情報もあります。


                  やまとこたろう


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